第六十五話 貸した男
(──出ていけ、か)
ヴィナは言った。
(言うと思ったよ)
(じゃあ、出ろ)
(断る)
彼は、あっさり言った。
(この人は、貸すと言った。……返せとは言われてない)
亮は、拳を握った。
(返せと言われたら、返すのか)
(返す)
ヴィナは言った。
(俺は、そこは守る)
◇
亮は、その言葉に、一瞬止まった。
この個体は、嘘をつかない。
ただ、言わないだけだ。
(──イリヤ)
亮は、心の中で呼んだ。
(聞こえるか)
返事はなかった。
(イリヤ!)
(無駄だよ)
ヴィナは言った。
◇
(いま、この人は奥にいる)
彼は言った。
(体を貸すってのは、そういうことだ。……お前も知ってるだろ)
(知ってる)
亮は言った。
(俺の親友が、同じことをされた)
(同じじゃない)
ヴィナは言った。
(そいつは、頼まれてない)
◇
亮は、その反論に、何も返せなかった。
そのとおりだった。
雅人は、頼まれていない。少しずつ、気付かないうちに手を貸させられていた。
イリヤは、頼まれて、答えた。
──そこが違う。
(だが、使い道を聞いてない)
亮は言った。
(聞かなかったのは、あの人だ)
ヴィナは言った。
◇
(あの人、何に使うと聞いた。俺は、グードを守るためだと答えた)
彼は言った。
(そうしたら、あの人はこう言った)
ヴィナは、少し間を置いた。
(──「それで、誰が死ぬ?」)
亮の呼吸が、止まった。
◇
(聞いてたのか)
(聞いてた)
(お前は、なんて答えた)
(答えなかった)
ヴィナは言った。
(黙ってたら、あの人はこう言った)
彼は言った。
(──「そうか。じゃあ、いい」)
◇
亮は、崖の上に立つ男を見た。
小柄で、痩せた、二十代半ばのロシア人。
この島で一度も投げなかった男。
その男は、答えを聞かないまま、体を貸した。
(──なんでだ)
亮は言った。
(分からん)
ヴィナは言った。
(俺も、分からなかった)
◇
(だから、聞いた)
彼は言った。
(なんて聞いた)
(お前、俺が何をするか分かってるのか、と)
ヴィナは言った。
(そうしたら、あの人はこう言った)
彼は、また間を置いた。
(──「俺の腕は、真っ直ぐじゃない」)
◇
亮は、その言葉に、息を呑んだ。
二日前、イリヤが自分で言った言葉だった。
銃は道具が真っ直ぐ飛ばしてくれる。ボールは腕が飛ばす。俺の腕は、真っ直ぐじゃない。
(それが、答えなのか)
(そう言った)
ヴィナは言った。
(そのあとに、こう続けた)
彼は言った。
(──「だから、お前が使え。俺よりは真っ直ぐだろう」)
◇
亮は、その場に立ち尽くしていた。
この男は、諦めていた。
自分の腕では何も守れないと、四十年撃ち続けた末に、そう結論していた。
だから、貸した。
誰が死ぬかも聞かずに。
(──ふざけるな)
亮は言った。
◇
(ふざけるな、と言ってる)
(誰にだ)
(イリヤにだ)
亮は言った。
(あんたの腕が真っ直ぐじゃないなら、真っ直ぐにする方法を考えろ)
彼は言った。
(貸すな)
◇
(金松さん)
カマウの声が、後ろでした。
(俺には、何も聞こえん)
(分かってます)
(だが、お前の顔を見れば分かる)
彼は言った。
(あれは、味方か)
(分かりません)
亮は言った。
(味方のつもりでいる敵です)
◇
(──なあ、宿主の男)
ヴィナが言った。
(金松亮だ)
(金松)
彼は言った。
(俺が四人喰えば、グードは助かる。……お前も助かる)
(そうだな)
(じゃあ、なんで止める)
◇
(四人の宿主が死ぬ)
亮は言った。
(名前を知らない四人だ)
(知らない奴のために、グードを危険に晒すのか)
(そうだ)
(意味が分からんな)
ヴィナは言った。
(お前、あの子を大事にしてるんじゃないのか)
◇
(してる)
(じゃあ)
(大事にしてるから、断る)
亮は言った。
自分でも、うまく説明できていないと思った。
それでも、続けた。
(あいつは、二十年前に一人だけ助かった)
亮は言った。
(そのことを、まだ引きずってる)
◇
(十六人が死んで、自分だけ生きた)
亮は言った。
(あいつは、そのことを一度も言わない。……でも、ずっと持ってる)
彼は言った。
(そこに、四人足すのか)
ヴィナは、答えなかった。
(お前が四人喰って、あいつが生き延びたら)
亮は言った。
(あいつは、二十人になる)
◇
長い沈黙があった。
(──グード)
ヴィナが言った。
(うん)
(お前、どう思う)
少年は、しばらく答えなかった。
(……ヴィナ)
(なんだ)
(僕、四番の部屋のこと、覚えてる)
◇
(お前、いつも隅で座ってた)
グードは言った。
(僕がボール投げてるの、見てた)
(見てた)
(一回だけ、僕に話しかけたよね)
少年は言った。
(覚えてないな)
(覚えてないの)
◇
(僕、覚えてる)
グードは言った。
(ボール、貸してって言った)
少年は言った。
(僕、貸した。お前、投げた。……全然飛ばなかった)
彼は言った。
(それで、お前、ボールを返して、また隅に座った)
◇
(……ああ)
ヴィナが言った。
(思い出したの)
(思い出した)
彼は言った。
(俺、あれで諦めたんだ)
(諦めた?)
(俺には無理だと思った)
ヴィナは言った。
(お前は、上手くなった。俺は、投げなかった)
◇
(それで、選ばれたのはお前だ)
彼は言った。
(当たり前だよな。……投げる奴を乗せるに決まってる)
グードは、答えなかった。
(グード)
(うん)
(俺は、あのとき諦めた)
ヴィナは言った。
(この人も、諦めてる)
◇
(腕が真っ直ぐじゃないと言った)
彼は言った。
(俺も、あのとき同じことを思った。……俺の腕じゃ飛ばない、と)
彼は言った。
(諦めた奴には、諦めた奴が分かる)
亮は、その言葉を聞いていた。
◇
(だから、この人は貸したんだ)
ヴィナは言った。
(自分の腕を諦めて、他人の腕に賭けた)
彼は言った。
(俺は、その賭けに応える)
(──違う)
亮は言った。
(何が違う)
◇
(あんたは、応えてない)
亮は言った。
(あの人は、諦めた腕を貸したんだ。……あんたは、それを使って四人殺そうとしてる)
(同じことだ)
(違う)
亮は言った。
(あの人が諦めたのは、腕だ。人じゃない)
◇
崖の上で、風が吹いた。
海の音がしていた。
イリヤの体は、両手に球を持ったまま、動かなかった。
その目に、焦点はない。
(──金松)
ヴィナが言った。
(なんだ)
(お前、投げられるのか)
◇
(右は死んでる)
亮は言った。
(左は、六球で限界だ)
(それで、四人から守るのか)
(守る)
(無理だな)
ヴィナは言った。
(無理だ)
亮は認めた。
◇
(じゃあ、賭けよう)
ヴィナが言った。
(賭ける?)
(今日一日、俺は動かない)
彼は言った。
(お前が、四人からグードを守れるかどうか。……見せてもらう)
(守れなかったら)
(俺が喰う)
◇
(それでいいのか)
(よくない)
ヴィナは言った。
(だが、この体の男が、たぶんそう言う)
彼は言った。
(あの人、俺に体を貸すとき、こう言ったんだ)
ヴィナは言った。
(──「見てから決める」)
◇
亮は、その言葉に、顔を上げた。
崖の上の男は、動かない。
だが、その体の奥に、まだ意識がある。
諦めた腕を貸した男が、それでも、見ようとしている。
(──分かった)
亮は言った。
(賭ける)
◇
ヴィナが、両手の球を地面に置いた。
それから、その場に座った。
(今日一日だ)
彼は言った。
(日が沈むまでに、四人が来る)
(来るのか)
(来る)
ヴィナは言った。
(俺が起きたのは、あいつらが近づいてきたからだ)
◇
(四人、名前は分かるか)
亮は聞いた。
(分からん)
(じゃあ、どこから来る)
(分からん)
ヴィナは言った。
(だが、一つだけ分かる)
(なんだ)
(あいつら、球を持ってない)
◇
亮は、その言葉に眉を寄せた。
(持ってない?)
(喰うのに、球は要らない)
ヴィナは言った。
(触ればいい)
彼は言った。
(お前に触れる距離まで来れば、それで終わりだ)
◇
亮は、その言葉を頭の中で組み立てた。
球を投げる必要がない。
当てる必要もない。
ただ、亮の体に手が届けばいい。
(──逃げるしかないのか)
(そうだな)
ヴィナは言った。
(あるいは、触られる前に、そいつらを潰すかだ)
彼は言った。
(お前には、できないだろうがな)




