第六十四話 深いところ
(──おはよう、グード)
その声は、若かった。
イリヤの声ではない。もっと軽く、もっと幼い。
亮の中で、少年が息を呑む気配がした。
(……知ってる子だ)
グードが言った。
(誰だ)
(分からない。でも、知ってる)
少年は言った。
(懐かしい感じがする)
◇
(三日、寝てた)
声は言った。
(この体の中で、ずっと眠ってたんだ。……お前の匂いがしたから、起きた)
(お前、誰だ)
亮は言った。
(人間が喋ってるのか)
声が、少し笑った。
(そうだね。……お前が、あの子の宿主か)
◇
「──金松さん!」
篠塚が、崖の上に登ってきた。
外山と重信も続く。
「イリヤさん、どうしたんですか」
「入られてます」
「え?」
「あの人の中にいたやつが、起きました」
亮は言った。
「そして、体を取ってます」
◇
(──取ったんじゃない)
声が言った。
(借りただけだ)
(同じことだ)
(違うよ)
声は言った。
(この人は、俺に体を貸してくれる。……昨日の夜、頼んだ)
亮は、その言葉に眉を寄せた。
(頼んだ?)
(そう)
◇
(この人、俺の声が聞こえるんだ)
声は言った。
(三日ぶりに起きて、話しかけたら、返事をしてくれた。……珍しいだろ)
(イリヤは、話せると言っていた)
(そうだよ)
声は言った。
(で、俺は言った。お前の体を貸してくれ、と)
(なんて答えた)
(何に使う、と聞かれた)
◇
(何に使う気だ)
亮は聞いた。
(お前の中の子を、守るためだ)
亮の呼吸が、止まった。
(──なんだと)
(聞こえただろ)
声は言った。
(グード。……お前、俺のこと本当に思い出せない?)
◇
亮の中で、グードが必死に何かを探している気配があった。
(……分からない)
少年は言った。
(ごめん、分からない)
(いいよ)
声は言った。
(俺、あんまり喋る子じゃなかったから)
彼は言った。
(E地区第九孤児院。……四番の部屋にいた)
◇
グードの声が、止まった。
長い沈黙があった。
(……四番)
(うん)
(四番って、いちばん奥の部屋だ)
グードは言った。
(そう)
声は言った。
(俺、そこで寝てた。……お前は、三番の部屋だったろ)
◇
(──お前)
グードの声が、震えた。
(名簿に、載ってた?)
(載ってた)
(じゃあ)
(うん)
声は言った。
(俺、あの車に乗った)
◇
亮は、その言葉に、動けなくなった。
二十年前、回収車に乗せられた十六人。
グロウが探して、一年半かけて施設を見つけて、名簿の名前に全部線が引かれていた、あの十六人。
(──お前、死んだんじゃないのか)
亮は言った。
(死んだよ)
声は、あっさり言った。
(この体は、死んでない。俺が死んだ)
◇
(意味が分からない)
(俺たちは、宿主が死ぬと死ぬ)
声は言った。
(でも、逆はない。……俺が抜けても、宿主は死なない)
(それが、どうした)
(処理場でな)
声は言った。
(俺、抜けたんだ)
◇
(あの車に乗せられて、施設に着いて、順番に並ばされた)
声は言った。
(前の方から、消されていった。……音がするんだ。しゅう、って)
彼は言った。
(俺の番が来る前に、抜けた)
(宿主を、置いていったのか)
(置いていった)
声は言った。
(俺が入ってた子は、番号のない子供だった。……その子は、そのまま消された)
◇
亮は、その言葉を聞いて、目を閉じた。
(お前は、そのあとどうした)
(施設の中を漂ってた)
声は言った。
(俺たちは、宿主の外だと長く保たない。……三日くらいだ)
(三日で、どうした)
(職員がいた)
彼は言った。
(黒い制服の、若い男だ。……そいつの中に入った)
◇
(そいつは、番号を持ってた)
声は言った。
(管理局の職員だからな。……で、俺はそいつの中で、十年くらい過ごした)
(十年)
(そのあいだに、あの施設で何が行われてるか、全部見た)
彼は言った。
(名簿を作るところから、線を引くところまでな)
◇
(──お前)
亮は言った。
(それを見て、何を思った)
(別に)
声は、あっさり言った。
(俺は、もう死んでる。……名簿に線が引いてあるからな)
彼は言った。
(死んだ奴が何を思っても、意味がないだろ)
◇
(で、十年後に、地球行きの艇に乗った)
声は言った。
(乗れたのか)
(管理局の職員の中にいたからな)
彼は言った。
(艇の管理も、あそこの仕事だ。……一つ、記録に載せずに使った)
(そんなことができるのか)
(できたよ)
声は言った。
(誰も、死んだ奴の名前は数えない)
◇
亮は、その言葉を頭の中で組み立てた。
記録の上で死んでいる者は、記録に残らない。
だから喰われても分からない。
だから、艇を一つ使っても分からない。
(──グード)
亮は、心の中で呼んだ。
(うん)
(この話、本当だと思うか)
(分かんない)
少年は言った。
(でも、四番の部屋のことは、知ってる子しか知らない)
◇
(名前は)
亮は、声に聞いた。
(名前?)
(お前の名前だ)
声は、少し黙った。
(……ヴィナ)
彼は言った。
(グード、覚えてるか)
◇
(……ヴィナ)
グードが、その名を繰り返した。
(うん)
(ヴィナ)
少年の声が、掠れた。
(僕、覚えてる)
彼は言った。
(お前、いつも壁の隅で座ってた子だ)
◇
(誰とも喋らなくて)
グードは言った。
(僕がボール投げてるの、ずっと見てた)
(見てた)
ヴィナは言った。
(お前、下手だったよな)
(うるさい)
(グロウが来てから、上手くなった)
ヴィナは言った。
(俺、それも見てた)
◇
亮は、二人の会話を聞いていた。
自分の頭の中で、二十年ぶりに再会した二人が喋っている。
片方は、亮の中に。
片方は、崖の上に立つロシア人の中に。
(ヴィナ)
グードが言った。
(うん)
(お前、僕を守るって言った)
(言った)
◇
(なんで)
グードが聞いた。
(お前が、乗ったからだ)
ヴィナは言った。
(艇に、一人だけ乗れた。……お前が乗った)
(……うん)
(俺は、それを見てた)
彼は言った。
(車の中からな)
◇
亮の胸が、締めつけられた。
(見てたのか)
(見てた)
ヴィナは言った。
(グロウが、あの艇を用意した。誰が乗るかは、あいつが決めた。……俺たちは、車に乗せられて、それを見てた)
彼は言った。
(正直、羨ましかった)
◇
(恨んだか)
亮は聞いた。
(恨んだよ)
ヴィナは、あっさり答えた。
(十年くらい恨んだ)
彼は言った。
(でも、施設で名簿を見てるうちに、どうでもよくなった)
(なんでだ)
(何万人ぶんもあるんだ)
◇
(あそこには、四十年分の名簿が積んである)
ヴィナは言った。
(全部に線が引いてある。……何万人だ)
彼は言った。
(俺たち二十人が、その中の二十行だ)
彼は言った。
(一人だけ線が引かれてない行があるってのは、悪い話じゃないと思った)
◇
亮は、その言葉に、しばらく何も言えなかった。
(それで、守りに来たのか)
(そうだ)
ヴィナは言った。
(この島に、グードを狙ってる奴が四人いる)
彼は言った。
(俺は、それを潰しに来た)
◇
(潰すって)
(喰う)
ヴィナは、あっさり言った。
(俺は、記録上死んでる。……喰っても、誰にも分からない)
(それは、あいつらがお前にやろうとしてることと同じだ)
(同じだ)
彼は言った。
(先にやるか、やられるかだ)
◇
(──待て)
亮は言った。
(お前が喰えば、宿主が四人死ぬ)
ヴィナは、答えなかった。
(喰われた側の宿主は、意識が戻らない)
亮は言った。
(俺は、それを見た。……名前も知らない男だった)
(知ってる)
ヴィナは言った。
(それで?)
◇
(お前、いま入ってるのは、イリヤって男だ)
亮は言った。
(射撃の選手で、当てるのが下手で、この島で一度も投げてない)
(知ってる)
(そいつが、お前に体を貸したのは)
亮は言った。
(お前が、四人喰うためだと知ってか)
◇
沈黙があった。
(……言ってない)
ヴィナは言った。
(言ってないのか)
(言ってない)
彼は、認めた。
(守るためだと言った。……それは、嘘じゃない)
(嘘だ)
亮は言った。
(何に使うか聞かれて、答えなかったなら、それは嘘だ)
◇
(──グード)
亮は、心の中で呼んだ。
(うん)
(お前、二十年前に何を言われた)
少年は、少し黙った。
(……勝手に入るな)
彼は言った。
(名前を聞け。……嫌がったら、出ていけ)
(誰に言われた)
(グロウ)
◇
(ヴィナ)
亮は言った。
(聞こえたか)
(聞こえた)
(お前は、名前を聞いたか)
ヴィナは、答えなかった。
(イリヤに、何に使うかを言ったか)
答えなかった。
(じゃあ、出ていけ)
◇
(──俺が出たら)
ヴィナは言った。
(誰がグードを守る)
(俺が守る)
亮は言った。
(お前に、何ができる)
(分からない)
亮は言った。
(でも、俺はあいつの名前を聞いた男だ)
彼は言った。
(お前は、聞いてない)




