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第六十三話 五日目

 五日目の朝は、雨だった。


 夜のうちに降り始めたらしい。目を覚ましたとき、亮の全身は濡れていた。


 火は、消えていた。


 八人が、木の下に身を寄せている。


「──金松さん」


 重信が言った。


「悪くないです、これ」


「雨がですか」


「はい」


 彼は、掌を上に向けた。


「水が飲めます。それに、足跡が消えます」


          ◇


 だが、悪いこともあった。


 音が消える。


 雨音が、あらゆる物音を覆い隠していた。


 枝を踏む音も、布の擦れる音も、聞こえない。


(──金松)


 イリヤが言った。


(お前の耳が、使えなくなる)


(分かってる)


(それに)


 彼は言った。


(球が、滑る)


          ◇


 亮は、その指摘に顔を上げた。


 濡れたゴムボールは、滑る。


 投げる側も、拾う側も。


(──拾えなくなる)


 亮は思った。


 昨日、六回回した。


 あれは、乾いた球だったからだ。


 濡れた球では、拾い損ねる。


          ◇


「──今日は、回すのをやめます」


 亮は、七人に言った。


 カマウとイリヤが、それぞれの側に伝えた。


「雨で、球が滑ります」


 亮は言った。


「拾い損ねる確率が、上がります。……昨日と同じことをしたら、死人が出ます」


「じゃあ、どうするんですか」


 外山が聞いた。


「食料を探します」


          ◇


 八人は、島の西へ向かった。


 まだ誰も踏み込んでいない側だ。地形が険しく、崖と斜面ばかりで、水場から遠い。


 だからこそ、誰も行っていない。


 雨の中を、二時間歩いた。


 亮の左腕は、まだ震えていた。六球投げただけで、二日経っても回復していない。


          ◇


 斜面の途中で、ムーサが足を止めた。


 彼が、何か言った。


(──貝だ)


 カマウが伝えた。


(貝?)


(岩に付いている)


 亮は、そちらへ向かった。


 崖を降りたところに、岩場があった。潮が引いていて、黒い岩がむき出しになっている。


 その表面に、小さな貝が無数に張り付いていた。


          ◇


「──食えますかね」


 外山が言った。


「食えます」


 重信が、即答した。


「なんで分かるんですか」


「うち、実家が漁師なんです」


 彼は言った。


「これ、カメノテです。日本でも食べます」


 彼は、岩から一つ剥がした。


「生でもいけます。でも、火が通せるなら通した方がいいです」


          ◇


 八人が、岩場に降りた。


 雨の中で、全員が貝を剥がし始めた。


 誰も喋らなかった。


 三十分ほどで、両手いっぱいの量が集まった。


 テオドールが、何か言って笑った。


(──久しぶりに、仕事らしい仕事をした、と言っている)


 カマウが伝えた。


          ◇


 崖の下の、雨の当たらない岩陰で、火を起こした。


 イリヤが、また器用に火をつけた。


 湿った枝しかなかったが、彼は乾いた芯を削り出して火種を作った。


(──射撃の選手が、なんでそんなことができる)


 亮が聞くと、イリヤは少し笑った。


(親が猟師だった)


 彼は言った。


(俺は、的しか撃たん。……だが、火の起こし方だけは覚えた)


          ◇


 貝を焼いた。


 塩気があった。


 八人が、無言でそれを食べた。


 五日目にして、初めての、食事らしい食事だった。


 外山が、途中で泣き出した。


 誰も、何も言わなかった。


          ◇


「──金松さん」


 篠塚が、貝を口に運びながら言った。


「これ、他の連中に教えますか」


 亮は、その質問に、手を止めた。


「……」


「教えたら、全員が生き延びます」


 篠塚は言った。


「教えなかったら、向こうが先に飢えます」


 彼は、亮を見た。


「どっちが正しいですか」


          ◇


 亮は、しばらく答えられなかった。


 教えれば、全員が三日ぶん生きる。


 教えなければ、向こうが弱る。そのぶん、こちらが有利になる。


 ──そして。


「……教えなかったら」


 亮は言った。


「向こうは、俺たちを襲いに来ます」


「そうですね」


「飢えた人間は、何をしても食おうとします」


          ◇


「教えます」


 亮は言った。


「そうすると思いました」


 篠塚は言った。


「反対ですか」


「いえ」


 彼は、あっさり言った。


「俺、拾う専門なんで。……決めるのは、あんたです」


          ◇


 カマウに伝えると、彼は少し驚いた顔をした。


(食料の場所を、敵に教えるのか)


(教える)


(正気か)


(あんた、昨日も同じことを言った)


 亮は言った。


(言ったな)


 カマウは、笑った。


(俺の国では、走者に水を渡すのは、沿道の人間だ)


 彼は言った。


(誰の走者かは、聞かん)


          ◇


 ハビエルへの伝達は、その日の午後に届いた。


 彼は、三人を連れて岩場に現れた。


(──貝だと?)


(食える)


 亮は言った。


(毒はないのか)


(うちの一人が、漁師の息子だ)


 亮は言った。


(そいつが、食えると言ってる)


          ◇


 ハビエルは、少し笑った。


(信じるしかないな)


(信じなくてもいい)


(いや)


 彼は言った。


(俺は、二十二歳だ。……あと二日、生きてみたい)


 彼は、岩場に降りていった。


 連れてきた三人も、それに続いた。


          ◇


 その日の夕方までに、岩場には十五人が集まっていた。


 誰も、投げなかった。


 球を持っている者も何人かいたが、全員、それを地面に置いて貝を剥がしていた。


 雨が、降り続いている。


 言葉は通じない。国も違う。


 だが、十五人が並んで、同じ岩から貝を剥がしていた。


          ◇


 亮は、その光景を見ていた。


 ──甲本さん。


 あの人が見たら、なんと言うだろうと思った。


 たぶん、何も言わない。


 黙って、隣に来て、一緒に貝を剥がす。そういう人だった。


「──金松さん」


 外山が言った。


「これ、なんですかね」


「分かりません」


 亮は言った。


「でも、悪くないです」


          ◇


 その夜。


 雨が止んだ。


 八人は、崖下の岩陰で眠った。


 久しぶりに、腹に何かが入っている。


 外山は、横になってすぐ眠った。重信も、テオドールも。


 亮は、眠れなかった。


(──グード)


(うん)


(近くにいるって、言ってたよな)


          ◇


(うん)


 少年は言った。


(今日、もっと近くなった)


(何人だ)


(分かんない。でも、五人くらい)


 グードは言った。


(さっきの岩場に、何人か混ざってた)


 亮の背筋が、冷えた。


(貝を剥がしてた連中の中にか)


(うん)


          ◇


(そいつらは、何をしてる)


(待ってる)


 グードは言った。


(何を)


(僕が、もっと弱るのを)


 亮は、身を起こした。


(お前、いま弱ってるのか)


(うん)


 少年は、あっさり言った。


(力が戻ってきてるけど、まだ半分もない)


          ◇


(喰われるとき、抵抗できるのか)


(できない)


 グードは言った。


(元気でも、たぶんできない。……僕、戦うのは得意じゃないから)


(じゃあ、どうする)


(逃げる)


 少年は言った。


(でも、僕は亮くんの中にいるから)


 彼は言った。


(亮くんが逃げないと、僕も逃げられない)


          ◇


 亮は、暗い岩陰を見回した。


 七人が眠っている。


 その中の誰かが、狙われている。いや、狙っているのかもしれない。


(グード)


(うん)


(今日、岩場にいた五人のうち、俺たちの中にいた奴はいるか)


 少しの沈黙があった。


(……いない)


          ◇


(八人の中には、いなかった)


 グードは言った。


(そうか)


 亮は、少しだけ息を吐いた。


(でも、亮くん)


(なんだ)


(僕、一つ気になってることがあるんだ)


 少年は言った。


(イリヤさんの中の子)


          ◇


(イリヤに、どうかしたか)


(あの子、ずっと黙ってる)


 グードは言った。


(黙ってる?)


(うん)


 少年は言った。


(僕ら、近くにいると、なんとなく分かるんだ。……誰がどこにいて、何を考えてるか、少しだけ)


 彼は言った。


(でも、あの子だけ、何も伝わってこない)


          ◇


(隠してるのか)


(隠してるっていうか)


 グードは、言葉を探しているようだった。


(……眠ってるのかも)


(お前と同じか)


(ううん)


 少年は言った。


(僕は、眠ってても、亮くんの声は聞こえる)


 彼は言った。


(あの子は、たぶん、もっと深い)


          ◇


 亮は、眠っているイリヤの方を見た。


 小柄な体が、岩壁に寄りかかって座ったまま眠っている。


 この男は、投げない。


 当てられないからだと言った。銃は道具が真っ直ぐ飛ばしてくれるが、腕は真っ直ぐじゃないと。


 久我と、同じ系統の人間だと亮は思っていた。


(グード)


(うん)


(明日、聞いてみる)


          ◇


 六日目の朝が来た。


 雨は上がっていた。


 空が、抜けるように青かった。


 亮が目を覚ましたとき、岩陰には七人しかいなかった。


 一人、いなかった。


 イリヤだった。


          ◇


「──イリヤさんは」


 亮は、起き上がった。


(見ていない)


 カマウが言った。


(朝からいない)


 テオドールが、何か言った。


(夜中に、一度起きたそうだ)


 カマウが伝えた。


(そのとき、こいつは、崖の上を見ていたと)


          ◇


 亮は、崖を見上げた。


 高さ二十メートルほどの岩壁。その上は、草地になっているはずだ。


 昨日、貝を採るために降りてきた場所だ。


(──登るぞ)


 亮は言った。


 右腕が使えないので、登るのに時間がかかった。カマウとムーサが、先に上がって手を貸した。


 崖の上に出たとき、亮は足を止めた。


          ◇


 草地に、人が立っていた。


 イリヤだった。


 崖の縁から、三歩ほど手前。


 海の方を向いている。


 その両手に、赤いゴムボールがあった。


「──イリヤさん!」


 亮は叫んだ。


          ◇


 イリヤが、振り返った。


 その目を見た瞬間、亮の背中が凍った。


 焦点が、合っていなかった。


 白線の向こうで見た、あの目だった。


 そして、頭の中に声が流れ込んできた。


 イリヤの声ではなかった。


(──おはよう、グード)

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