第六十二話 拾わせる球
その日の午後。
亮は、左手に球を持ったまま、川岸に立っていた。
周囲の木立に、影がいくつかある。
四つか、五つか。距離を取ったまま、こちらを見ている。
(──金松)
カマウが言った。
(早く投げろ)
(分かってる)
(お前が持っている限り、そこが的になる)
◇
亮は、周囲を見回した。
木立の中の影のうち、二つが並んでいる場所がある。
二人組だ。
(──あそこにする)
(二人か)
(拾い手が一人いる)
亮は言った。
(三人組の方がいいんじゃないのか)
(三人組は、遠い)
亮は言った。
(届かない)
◇
それが、いまの亮の限界だった。
右肩は死んでいる。左は、地下で六球投げただけの腕だ。
届く距離が、短い。
速い球は投げられる。あの、床を這う球なら投げられる。
だが、それは当てるための球だ。
拾わせるための球ではない。
◇
(──拾いやすい球って、なんだ)
亮は、心の中で自分に問いかけた。
野球では、逆のことばかり考えてきた。
打ちにくい球。捕りにくい球。差し込む球。
拾いやすい球など、一度も考えたことがない。
──いや。
◇
(あった)
亮は思い出した。
キャッチボールだ。
試合前、ブルペンに入る前に、必ずやる。
相手が捕りやすいところへ、同じ速さで、同じ高さで投げる。
あれを、十四年やってきた。
◇
(──胸だ)
亮は思った。
胸に投げる。
足元でも、頭でもなく、胸の高さへ。
当たった球は、体の前で跳ねる。跳ねた球は、その人間の目の前に落ちる。
自分で拾える位置に落ちる。
◇
(カマウ)
(なんだ)
(あの二人に、声をかけられるか)
(何と言う)
(球を投げる、と)
カマウが、驚いた気配を出した。
(予告するのか)
(する)
亮は言った。
(拾わせるためだ)
◇
(正気か)
(正気だ)
亮は言った。
(不意打ちで当てたら、拾えない。……構えさせてから投げる)
カマウは、しばらく黙っていた。
(──お前は、勝つ気があるのか)
(ある)
(どう見ても、ないぞ)
(勝ち方が違う)
亮は言った。
◇
カマウが、木立に向かって声を出した。
言葉は分からない。
だが、二つの影が動いた。
一つが、木の陰から出てきた。
若い男だった。二十代前半。細身で、背が高い。
その男が、こちらを見て、頭の中に声を送ってきた。
(──なんだって?)
◇
(球を投げる)
亮は言った。
(あんたに当てる。……胸に投げるから、跳ねたのを拾ってくれ)
男は、しばらく黙っていた。
(……罠か)
(罠じゃない)
(なぜ予告する)
(拾ってほしいからだ)
亮は言った。
(拾えば、判定はあんたに移る。あんたも投げれば、次に移る)
◇
(俺が拾えなかったら、俺が死ぬ)
(そうだ)
(お前は、それでいいのか)
(よくない)
亮は言った。
(だから、拾いやすいところに投げる)
男は、また黙った。
やがて、彼は木立から完全に出てきた。
◇
(──俺は、ハビエルだ)
彼は言った。
(南米地域と言われた。……アルゼンチンだ)
(金松亮だ)
(競技は)
(野球だ。投手をやってた)
(俺はバレーボールだ)
ハビエルは言った。
(レシーブは、得意だ)
◇
亮は、その言葉に少し息を吐いた。
(じゃあ、胸に投げる)
(来い)
ハビエルは、両膝を軽く曲げた。
バレーボールの構えだった。腰を落として、両手を体の前で組んでいる。
(──待て)
亮は言った。
(なんだ)
(その構えだと、球が上に跳ねる)
◇
(跳ねたら、拾えない)
亮は言った。
(腕を、下に向けてくれ)
ハビエルは、少し驚いたようだった。
(レシーブは、上に上げるものだ)
(知ってる)
亮は言った。
(でも、今日は落としてくれ。……自分の足元に)
◇
ハビエルは、しばらく考えていた。
それから、構えを変えた。
両手を、体の前で下に向けた。バレーボールとは逆の形だった。
(──こうか)
(それだ)
亮は言った。
(行くぞ)
(来い)
◇
亮は、左足を引いた。
球を、左手に持つ。
狙いは、二十メートル先の男の胸。
速さは要らない。
十四年、試合前に必ずやってきた動作。
──キャッチボールだ。
◇
亮は、投げた。
速くない。回転も不揃いだ。
だが、真っ直ぐ飛んだ。
球は、ハビエルの胸に当たった。
そして、下に向けた腕に弾かれて、彼の足元に落ちかけた。
その手が、地面に触れる前に、それを掬った。
◇
(──取った)
ハビエルが言った。
(取った)
亮は言った。
誰も死ななかった。
(一だ)
亮は、心の中で数えた。
拾われた数、一。
落ちた数、〇。
◇
(──金松亮)
ハビエルが言った。
(なんだ)
(お前、これを何回やるつもりだ)
(七日目までだ)
(三日ある)
(ある)
亮は言った。
(三日、これを続ける)
◇
(続けたら、どうなる)
(分からない)
亮は正直に言った。
(誰も減らないぞ)
(そうだな)
(七日目に、全員残ってたら、黒服が処理すると言っていた)
ハビエルは言った。
(それは、知ってるのか)
(知ってる)
◇
(じゃあ、意味がない)
(あるかもしれない)
亮は言った。
(どんな)
(分からない)
亮は言った。
(でも、三日ぶんの誰かが生きてる)
◇
ハビエルは、球を持ったまま、しばらく立っていた。
それから、周囲を見回した。
木立の中に、まだ影がある。
(──お前、それを他の連中にも言うのか)
(言う)
(全員にか)
(全員にだ)
亮は言った。
(言葉が通じない相手も多いが、言う)
◇
(俺が、伝えてやろうか)
ハビエルが言った。
亮は、その申し出に驚いた。
(あんたが?)
(俺は、四つの声と繋がってる)
彼は言った。
(この島には、中の声で喋れる奴が十人くらいいる。……そのうち四人と、俺は話せる)
◇
(なんで、そんなことをする)
亮は聞いた。
(別に)
ハビエルは言った。
(俺は、二十二歳だ)
(それが、どうした)
(三日、生きてみたい)
彼は、あっさり言った。
(それだけだ)
◇
ハビエルが、球を構えた。
(誰に投げる)
(あそこの三人組だ)
彼は、木立の奥を示した。
(拾えるか)
(三人いる。……たぶん)
彼は言った。
(胸に投げるんだったな)
(そうだ)
亮は言った。
(腕は、下に向けろと伝えろ)
◇
ハビエルが、投げた。
球は、木立の中の男の胸に当たった。
跳ねた球が、落ちる。
誰かの手が、伸びた。
拾った。
(──二だ)
亮は数えた。
◇
その日の夕方まで、球は回り続けた。
六回。
誰も死ななかった。
六回目のあと、日が傾いた。
亮は、川岸に座り込んでいた。
左腕が、震えていた。六球で、もう限界だった。
◇
「──金松さん」
外山が、隣に座った。
「六回、続きましたね」
「はい」
「これ、あと三日やるんですか」
「やります」
「無理じゃないですか」
「無理です」
亮は言った。
「でも、今日は六回できました」
◇
「金松さん」
篠塚が言った。
「一つ、気になってることがあります」
「なんでしょう」
「回してるあいだ、誰も食べてません」
亮は、その言葉に顔を上げた。
「水は飲めます。でも、島に食料はほとんどない」
篠塚は言った。
「三日続けたら、全員が餓死します」
◇
亮は、その指摘に、何も返せなかった。
そのとおりだった。
球を回し続ければ、誰も殺し合わない。
だが、誰も減らないということは、限られた食料を全員で分けるということだ。
「──向こうも、それを分かってます」
篠塚は言った。
「たぶん、明日か明後日には」
彼は言った。
「食べるために、殺しに来ます」
◇
その夜、火を囲んだのは八人だった。
カマウ、ムーサ、テオドール、イリヤ。
亮、篠塚、外山、重信。
誰も、何も食べていない。
外山が、火を見ながら言った。
「……二日目に食った、あのすっぱいやつ」
「はい」
「あれ、もうないんですかね」
◇
重信が、答えた。
「明日、探しに行きましょう」
「どこにですか」
「島の反対側です」
彼は言った。
「まだ、誰も行ってない場所があるはずです」
亮は、その言葉に頷いた。
「行きましょう」
◇
その夜、亮は久しぶりにグードと話した。
(グード)
(うん)
(今日、六回回した)
(見てたよ)
少年の声は、昨日より、少しだけしっかりしていた。
(誰も死ななかった)
(うん)
(グード)
(なに)
(お前、力は戻ってきてるか)
◇
(ちょっとだけ)
グードは言った。
(あんまり無理はできないけど)
(無理はするな)
(うん)
少年は言った。
(ねえ、亮くん)
(なんだ)
(明日、もし僕が「いま逃げて」って言ったら、逃げてくれる?)
◇
亮は、その言葉に、身を起こした。
(何が来る)
(分からない)
グードは言った。
(でも、なんか、多いんだ)
(多い?)
(この島に、僕らが。……昨日より、近くに集まってきてる)
少年は言った。
(僕を、探してるんだと思う)




