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第六十話 拾うな

 球が、篠塚の胸に当たった。


 そのまま、体の前で跳ねる。


 篠塚は、動かなかった。


 落ちていく球を、彼は見ていた。


「──篠塚さん!!」


 亮は走った。


 左足が滑った。川岸の石が濡れている。転びかけて、左手をついた。


 その間に、球は落ちる。


          ◇


 だが、篠塚は、それを掴んだ。


 地面に触れる寸前で、片手が伸びた。


 左肩が、外れたままの腕だった。


 その腕が、掌を上に向けて、球を掬い上げた。


「──っ、」


 骨が鳴る音がした。


 篠塚は、球を抱えたまま、膝から崩れた。


          ◇


「篠塚さん!」


 亮が駆け寄ると、篠塚は荒い息をしながら顔を上げた。


「……自分で拾いました」


 彼は言った。


「金松さん、拾うなって言いましたよね」


「言いました」


「だから、自分で拾いました」


 篠塚は、少しだけ笑った。


「これなら、誰も来なくていいでしょう」


          ◇


 亮は、その言葉に、しばらく何も言えなかった。


 当てられた本人が拾えば、他の誰も球のところへ来なくていい。


 誰も、狙われない。


 その代わり。


(──こいつが、最終接触者だ)


「篠塚さん」


「はい」


「その球、どうするんですか」


「投げません」


 篠塚は言った。


「持ってます」


          ◇


 その向こうで、別の音がした。


 テオドールだった。


 もう一つの球が、彼の肩に当たっていた。


 球が跳ねる。


 地面へ。


 ──カマウが、動いた。


          ◇


 脱水で足を引きずっていた男が、その瞬間だけ、走った。


 二時間六分で四十二キロを走る男の走り方だった。


 無駄がない。上体がぶれない。


 球が地面に触れる直前で、その手が滑り込んだ。


 砂利を巻き上げて、カマウが転がった。


 球を、抱えていた。


          ◇


「──ふざけるな!」


 亮は叫んだ。


 声は届かない。それでも叫んだ。


(カマウ! 拾うなと言っただろう!)


(聞いた)


 カマウは、地面に転がったまま答えた。


(俺は走る人間だ)


 彼は言った。


(走れと言われて走らなかったことは、一度もない)


          ◇


 上流の二人が、動いていた。


 球を二つとも投げてしまった以上、彼らは手ぶらだ。


 だが、逃げなかった。


 その場に立って、こちらを見ている。


(──見せてもらった)


 若い方の声が言った。


(何をだ)


(お前たちが、拾うということをだ)


          ◇


(一人は、自分で拾った)


 男は言った。


(もう一人は、走った)


 彼は言った。


(つまり、お前たちの八人は、一人当たるたびに、必ず誰かが動く)


(それがどうした)


(動く人間は、そこにいると分かる)


          ◇


(俺たちは、この島に十九人残っている)


 男は言った。


(そのうち、七個の球を持っているのは、五組だ)


 彼は言った。


(お前たちの位置は、これでほぼ全員に知られた)


 亮の背筋が、凍った。


(──煙は、そのためか)


(そうだ)


          ◇


(三本の煙で、この島の全員がここを見た)


 男は言った。


(そして、いま、八人がここで拾い合っているのを見ている)


 彼は、周囲の木立を示した。


(何人か、もう見ているぞ)


 亮は、周囲を見回した。


 木立の中に、影があった。


 一つではない。


          ◇


 三つ。いや、四つ。


 距離を取ったまま、こちらを見ている。


 誰も、近づいてこない。


 球を持っていないからだ。


(──どうする)


 イリヤが言った。


(散るしかない)


 亮は言った。


(八人でまとまっていれば、狙われる)


(散れば、一人ずつ狩られる)


          ◇


(分かっている)


 亮は言った。


(それでも、いまここにいるよりましだ)


 彼は、周囲を見た。


 カマウが、球を抱えたまま立ち上がろうとしている。


 篠塚が、球を抱えたまま座り込んでいる。


 二人が、最終接触者だ。


 その二人が、いま、この島でいちばん狙われる存在になっている。


          ◇


(──カマウ)


 亮は呼んだ。


(なんだ)


(その球、投げるか)


 カマウは、抱えた球を見た。


(投げれば、判定が移る)


 彼は言った。


(誰かに当てれば、俺は助かる)


(そうだ)


(当てなければ、球は地面に落ちる)


 彼は言った。


(そして、俺が死ぬ)


          ◇


 カマウは、しばらく球を見ていた。


(──お前たちの言葉で、なんと言うのだったか)


 彼は言った。


(ペースメーカーだ)


 亮は、その言葉に息を呑んだ。


(俺は、三十キロまでの人間だ)


 カマウは言った。


(この島で、四十二キロは走れん)


          ◇


(カマウ)


(俺は、投げる)


 彼は言った。


(誰に)


(誰にでもだ)


 カマウは、木立の方を見た。


(そこに、四人いる。……誰でもいい)


 彼は、球を構えた。


(俺が当てれば、そいつが最終接触者になる。そいつの仲間が拾う。……その間に、お前たちは逃げろ)


          ◇


(待て)


 亮は言った。


(何を待つ)


(あんた、それで助かるのか)


(助かる)


 カマウは言った。


(判定が移れば、俺は自由だ)


(そのあとは)


(そのあとは、また来るだろうな)


 彼は言った。


(だが、いまは逃げられる)


          ◇


 亮は、その理屈を確認した。


 正しい。


 カマウが当てれば、判定は移る。移った相手の仲間が拾えば、また移る。そうやって、判定は島の中を回り続ける。


 誰も死なない。


 ──ただし、誰かが拾い損ねるまでは。


(カマウ)


(なんだ)


(当てる相手を、選ぶな)


          ◇


(何を言っている)


(いちばん人数の多い組に投げろ)


 亮は言った。


(拾い手が多い方が、確実に拾う。……死ぬ確率がいちばん低い)


 カマウは、少し驚いたようだった。


(お前、敵を生かそうとしているのか)


(違う)


 亮は言った。


(誰も死なせずに、判定を回し続けたい)


          ◇


(そんなことが、七日目まで続くと思うか)


(思わない)


 亮は言った。


(だが、今日は続く)


 カマウは、しばらく黙っていた。


 それから、木立の方を見た。


 四つの影のうち、二つが並んで立っている場所へ。


(──あそこだな)


          ◇


 カマウが、投げた。


 速くない。


 だが、真っ直ぐだった。四十二キロを走る男の体幹が、そのまま腕に乗っている。


 球は、木立の手前に立っていた男の腿に当たった。


 男が、驚いた顔をした。


 そして、球が落ちる。


          ◇


 隣の男が、動いた。


 地面に触れる直前、その手が球を掬った。


 拾った。


(──拾ったな)


 カマウが言った。


(拾った)


 亮は言った。


(では、次はあいつの番だ)


 カマウは、そう言って、その場に膝をついた。


 脱水の体で走り、投げた。それで限界だった。


          ◇


 木立の中で、球を拾った男が、こちらを見ていた。


 その男は、しばらく動かなかった。


 やがて、球を構えた。


 狙いは、こちらではなかった。


 彼は、体を九十度回した。


 そして、別の方角へ投げた。


          ◇


 木立の反対側。


 そこにいた別の影に向かって。


 風を切る音がして、鈍い音がした。


 誰かが、当たった。


 そして──


 その誰かの傍らで、また別の影が動いた。


 球が、拾われた。


          ◇


 亮は、その光景を見ていた。


 球が、島の中を回り始めている。


 誰も死なない。


 当てて、拾われて、また投げて、また拾われて。


(──回ってる)


 亮は思った。


(回ってるぞ)


          ◇


「──金松さん」


 篠塚が、球を抱えたまま言った。


「これ、続きますかね」


「分かりません」


「でも」


 篠塚は、少しだけ笑った。


「いま、誰も死んでません」


 亮は、頷いた。


 その日の午後。


 この島で初めて、球が人を殺さずに動いていた。


          ◇


 だが、それは長く続かなかった。


 三度目の投球で、球が落ちた。


 拾い手が、間に合わなかった。


 ──ぱん。


 乾いた音が、木立の向こうでした。


 誰かが倒れる音がした。


          ◇


 亮は、その音を聞いていた。


 誰が死んだのか、分からない。


 名前も知らない。どこの地域の人間かも分からない。


 これまで、亮の周りで死んだ人間には、全員名前があった。


 今の一人には、ない。


(……)


 亮は、目を閉じた。


          ◇


(──金松)


 カマウの声がした。


(なんだ)


(回っていたな)


(回ってた)


(何回だ)


(三回だ)


 亮は言った。


(三回、誰も死ななかった)


          ◇


(三回か)


 カマウは言った。


 彼は、膝をついたまま、空を見上げていた。


(俺の国では、四十二キロを走るとき、ペースメーカーが三十キロで抜ける)


(ああ)


(残りは、十二キロだ)


 彼は言った。


(一人で走る)


          ◇


(それは、長いのか)


 亮は聞いた。


(長い)


 カマウは言った。


(だが、三十キロまで誰かが引っ張ってくれたなら、走れる)


 彼は、亮を見た。


(三回でいい)


 カマウは言った。


(三回、誰も死ななかったなら、それは走ったということだ)


          ◇


 篠塚が、抱えていた球を見た。


「金松さん」


「はい」


「俺、この球、どうしましょう」


「……」


「投げないと、俺が死にます」


 彼は言った。


「投げると、誰かが死ぬかもしれません」


 亮は、その球を見た。


          ◇


「篠塚さん」


「はい」


「俺に、貸してください」


 篠塚が、顔を上げた。


「金松さん」


「俺が持ちます」


 亮は、左手を差し出した。


「そうしたら、俺が最終接触者になります」


「──駄目です」


          ◇


「なんでですか」


「あんたが死んだら、中の子が死にます」


 篠塚は言った。


「知ってます」


「じゃあ」


「それでも、貸してください」


 亮は言った。


「あなたは、投げない人だ」


 彼は、篠塚を見た。


「投げない人が球を持ってたら、いつか必ず死にます」


          ◇


 篠塚は、しばらく亮を見ていた。


 それから、球を差し出した。


 亮は、それを左手で受け取った。


 ずしり、と重かった。


 何度も持ってきたはずのものが、今日はやけに重かった。


(──これで、俺が最終接触者だ)


          ◇


 そのときだった。


 木立の中から、拍手の音がした。


 人の掌を打ち合わせる音。


 乾いた、ゆっくりとした拍手だった。


 全員が、そちらを見た。


 木の陰から、男が出てきた。


 背が高い。左頬に、大きな傷がある。


          ◇


 グロウだった。


 彼は、拍手をやめて、亮を見た。


 そして、頭の中に声が流れ込んできた。


(──いま、決めたな)


(何をだ)


(お前が持つと、自分で決めた)


 彼は言った。


(誰も走ってこなかった。誰も先回りしなかった)


 グロウは言った。


(自分の口で言った)

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