第五十九話 三本の煙
八人は、崖の上から島の中央を見ていた。
黒い煙が、三本。
風はほとんどない。煙は、まっすぐ空へ立ち上っている。
「──誰かが焚いてます」
重信が言った。
「三箇所で、同時にです。……偶然じゃないです」
「合図でしょうね」
篠塚が言った。
「誰に向けた合図ですか」
「たぶん、全員です」
◇
(──行くのか)
イリヤが、亮に聞いた。
(行かない方がいいと思うか)
(罠だ)
イリヤは、あっさり言った。
(三箇所で火を焚けば、必ず誰かが見に来る。……見に来た者を、そこで待っている)
(そうだな)
(では、なぜ考える)
◇
(水がある)
亮は言った。
(島の中央には、川がある)
イリヤは、少し黙った。
(何日、飲んでいない)
(二日だ)
(我々は三日だ)
イリヤは言った。
(カマウとムーサは、走る人間だ。……汗をかく体をしている。もう限界に近い)
◇
亮は、火のそばに座っている四人を見た。
カマウが、目を閉じて座っている。呼吸が浅い。
ムーサは、朝から一度も立ち上がっていない。
テオドールが、ときどきその肩を叩いていた。
(──行くしかないな)
亮は言った。
(そうだ)
イリヤは言った。
(罠だと分かって行く。……それが、いちばん腹が立つ)
◇
八人が、動き出した。
崖を離れ、草地を抜け、木立に入る。
カマウが先頭を歩いた。二時間六分で四十二キロを走る男が、いま、明らかに足を引きずっている。
「──金松さん」
外山が、亮の隣に来た。
「あの人、大丈夫ですかね」
「分かりません」
「俺、水泳やってるんで分かるんですけど」
外山は言った。
「脱水って、ある日いきなり来ます」
◇
一時間ほど歩いた。
煙は、まだ立っている。
木立が途切れて、川に出た。
三日前に飲んだ、あの川だった。
水がある。
「──待ってください」
亮は言った。
「上流を見てからです」
◇
重信が、上流へ二十メートルほど登った。
戻ってきて、首を振った。
「大丈夫です。何もありません」
その一言で、八人が川に殺到した。
カマウが、真っ先に膝をついた。
顔を水に突っ込んで、そのまま飲んだ。ムーサも同じだった。テオドールが、二人の背中を支えている。
亮も、水を飲んだ。
三日ぶりの水は、味がした。
◇
「──金松さん」
篠塚が言った。
「静かすぎませんか」
亮は、顔を上げた。
そのとおりだった。
煙が三本上がっている。それは、誰かが火を焚いているということだ。
なのに、人の気配がない。
川のそばには、誰もいなかった。
(──イリヤ)
(分かっている)
◇
(煙は、まだ上がっている)
イリヤは言った。
(火を焚いた者が、そばにいない)
(放置してるってことか)
(そうだ)
彼は言った。
(火を焚いて、離れた。……ここへ人を集めるためだけの火だ)
亮は、周囲の木立を見回した。
どこにも人影はない。
だが、見られている感覚があった。
◇
「──全員、水から離れてください」
亮は言った。
日本の三人が、すぐに動いた。
カマウたちは、動かなかった。
まだ飲んでいる。
(カマウ!)
(もう少しだ)
(離れろ!)
(三日ぶりなんだ)
カマウは言った。
(あと少しだけ、飲ませてくれ)
◇
その瞬間だった。
風を切る音がした。
上流からだった。
「──上っ!!」
亮は叫んだ。
球が、水面すれすれを飛んできた。
狙いは、川に膝をついているカマウだった。
◇
カマウが、水の中で身を捻った。
球が、その背中を打った。
「──っ!」
球は、跳ねた。
跳ねて、川の中へ落ちた。
水しぶきが上がる。
亮の頭が、真っ白になった。
(──水だ)
◇
地面ではない。
水面だ。
黒スーツは言った。ボールが地面に触れたとき、判定が確定する、と。
水は、地面か。
(──分からない)
「──カマウさん!」
亮は叫んだ。
だが、その名前は届かない。声は、言葉として伝わらない。
◇
動いたのは、ムーサだった。
水の中で、その体が跳ねた。
五千メートルの選手だ。この八人でいちばん体が軽い。
彼は、水に浮かぶ球へ、頭から飛び込んだ。
両手が、球を掴んだ。
水から、それを持ち上げた。
◇
誰も、爆発しなかった。
カマウは、生きていた。
ムーサが、球を掲げたまま、荒い息をしている。
水が、その全身から滴っていた。
(──浮いていた)
イリヤが言った。
(ゴムだ。……あれは、沈まない)
亮は、その言葉に気付いた。
◇
ゴムボールは、水に浮く。
地面に落ちれば判定が確定する。
だが、水面では確定しなかった。
浮いているあいだは、まだ落ちていない。
(──この川は、安全地帯だ)
亮は思った。
いや。
(違う)
◇
浮いている球は、流れる。
川は流れている。
流れた球は、いずれ岸に着く。
岸は、地面だ。
(──時間が延びるだけだ)
亮は、周囲を見回した。
上流から、二人が下りてきていた。
◇
両方とも、白人の男だった。
片方は若い。二十代。もう片方は三十代に見えた。
どちらも、手にボールを持っている。
二個。
亮は、その数を数えた。
こちらが持っているのは、三個。
合わせて五個。
◇
(──五個ある)
亮は言った。
(三個じゃなかったのか)
カマウが、水から上がりながら言った。
(黒服は、三個と言った)
(言った)
亮は言った。
(嘘だったんだ)
◇
上流の二人が、川岸で足を止めた。
そして、頭の中に声が流れ込んできた。
(──よく来たな)
若い方の声だった。
(火を焚いたのは、お前らか)
(そうだ)
その男は言った。
(八人まとまっていると聞いた。……水を使わせれば、必ず来ると思った)
◇
(ボールは、何個ある)
亮は聞いた。
(七個だ)
男は、あっさり答えた。
(この島に、七個ある。……我々は、そのうち二個を持っている)
(黒服は、三個と言った)
(言ったな)
男は言った。
(地域によって、違うことを言われている)
◇
亮の背筋が、冷えた。
(お前たちは、三個と聞いた。我々は、五個と聞いた)
男は言った。
(別の連中は、十個と聞いたそうだ)
(──なんでだ)
(決まっている)
男は言った。
(数え間違えさせるためだ)
◇
亮は、その言葉を頭の中で組み立てた。
この島の連中は、全員、違う数字を教えられている。
だから、誰も正確な状況を把握できない。
三個だと思っていれば、三個押さえた時点で安心する。
その安心が、隙になる。
(──この島に来て、初めて分かったな)
男は言った。
(我々も、昨日知った)
◇
(で、何の用だ)
亮は聞いた。
(火を焚いて、俺たちを呼んで、それで何がしたい)
(見たかった)
男は言った。
(何を)
(八人が、どう動くかだ)
彼は言った。
(今、はっきり見せてもらった)
◇
(一人が当たって、別の一人が飛び込んだ)
男は言った。
(水の中に飛び込んで、球を拾った。……あれは、大した反応だ)
彼は、ムーサを見た。
(お前たちは、拾う)
(そうだ)
(それが、お前たちの弱点だ)
◇
亮は、身構えた。
(弱点?)
(拾う奴は、必ず球のところへ来る)
男は言った。
(つまり、球を投げれば、そこへ人が集まる)
彼は、二個のボールを持ち上げた。
(我々は、狙う必要がない)
彼は言った。
(球を投げるだけでいい。……お前たちが、勝手に集まってくる)
◇
亮は、その言葉に、動けなくなった。
そのとおりだった。
当たった人間を助けるためには、球のところへ行かなければならない。
球のところに行けば、そこを狙われる。
助けようとする限り、こちらの動きは読まれ続ける。
(──金松さん)
イリヤの声がした。
(下がれ)
◇
(あの二人、投げる気だ)
イリヤは言った。
(分かるのか)
(構えが変わった)
彼は言った。
(俺は、四十年、的が動く瞬間を見てきた)
亮は、上流の二人を見た。
確かに、二人の重心が、わずかに前に移っていた。
◇
「──全員、散ってください!」
亮は叫んだ。
「集まらないで! 拾いに行かないで!」
日本の三人が、動いた。
だが、カマウたち四人には伝わらない。
(カマウ! 散れ!)
(何が起きた)
(拾うな! 当たっても拾いに行くな!)
◇
(それでは、当たった者が死ぬ)
カマウが言った。
(死ぬ!)
亮は言った。
(それでも、行くな!)
その言葉を叫んだ瞬間、亮は自分が何を言ったのかに気付いた。
──拾うな。
助けるな、と言った。
◇
上流の二人が、投げた。
二個の球が、同時に飛んだ。
一つは、テオドールへ。
もう一つは、篠塚へ。
「──篠塚さん!」
亮は叫んだ。
篠塚は、避けなかった。
両手を体の横に下ろしたまま、その球を、胸で受けた。




