第五十三話 上流
川に沿って、五人は登った。
谷筋は狭く、両側が斜面になっている。足元は濡れた岩で、油断すると滑る。
外山が先頭を歩いた。二十四歳で、この五人でいちばん体力が残っている。
亮は、三番目にいた。
右腕が使えないので、岩場では明らかに遅れる。バランスを取るのに、片腕は決定的に足りなかった。
「金松さん、手を」
重信が、後ろから支えてくれた。
「……すみません」
「いえ」
◇
三十分ほど登ったところで、外山が足を止めた。
「──あれ」
彼が指した先に、木があった。
背の低い、枝の張った木だ。その枝先に、緑がかった黄色い実がいくつも下がっている。
拳ほどの大きさだった。
「食えるやつですかね」
「分かりません」
重信が言った。
「でも、他に選択肢がないです」
◇
大貫が、一つ捥いだ。
匂いを嗅いで、少し齧った。
全員が、その顔を見た。
「……すっぱい」
「食えます?」
「食えます」
大貫は言った。
「けど、腹には溜まりません」
それでも、五人はその実を食べた。
二日ぶりの食べ物だった。
◇
実を捥ぎながら、亮は木の下を見た。
地面に、実の芯が散らばっていた。
乾いている。今日のものではない。
「──先客がいます」
亮は言った。
「ここ、もう誰かが食べてます」
「じゃあ、この木は」
「たぶん、残り物です」
亮は、枝を見上げた。
手の届く高さの実は、ほとんど残っていない。上の方にだけ、いくつか残っている。
◇
「外山さん、登れますか」
「登ります」
外山が、幹に手をかけた。
競泳の選手だ。腕の力は、この五人でいちばんある。
彼が上の枝から実を落とし、下で四人が拾った。
二十個ほど集まった。
五人で分ければ、四つずつ。
◇
「──止まってください」
篠塚が、低く言った。
全員が動きを止めた。
「上に、人がいます」
亮は、谷筋の上を見た。
三十メートルほど先。岩の陰に、人影が二つある。
こちらを見ていた。
◇
二人が、岩陰から出てきた。
どちらも大柄だった。片方は、亮より頭一つ大きい。
そして、片方の手に。
赤いゴムボールがあった。
「──ボールです」
重信が言った。
「三個のうちの一個ですね」
「……はい」
亮は、そのボールを見つめた。
あの地下で見続けてきたものと、まったく同じに見える。
だが、中身が違う。
◇
(──そこの五人)
頭の中に、声が流れ込んできた。
昨夜の声とは違う。若い、早口の声だった。
(食べたな)
(食べた)
亮は、心の中で答えた。
(それは我々の木だ)
(誰が決めた)
(三日前に、我々が見つけた)
声は言った。
(先に見つけた者のものだ。当たり前だろう)
◇
亮は、四人の方を向いた。
「──上の連中の木だそうです」
「木に名前が書いてあるんですか」
大貫が言った。
「書いてないです」
「じゃあ、俺たちの木でもありますね」
亮は、少し笑いそうになった。
この人は、最初からずっとこうだ。難しいことを言わない。
◇
(返せ、と言っている)
声が言った。
(腹の中だ。無理だ)
(では、代わりを寄越せ)
(何を)
(一人)
亮の顔から、笑いが消えた。
(一人差し出せば、この木の使用を許可する。……七日間、飢えずに済むぞ)
◇
亮は、上流の二人を見た。
昨夜の四人とは、別の連中だ。
だが、言っていることは同じだった。
(──お前ら、示し合わせてるのか)
(何がだ)
(昨夜も、同じことを言われた。二人寄越せと)
(ああ)
声は、あっさり言った。
(そういう話は、あちこちで出ている)
◇
(お前たちが五人だからだ)
声は言った。
(この島の誰もが、まず日本を削ろうとしている。……お前たちを減らすまで、他は動かない)
(なんでだ)
(怖いからだ)
その答えは、亮の予想と違った。
(五人が組んで動けば、二人や三人では勝てん。……だから、先に崩す。それだけだ)
◇
(断る)
亮は言った。
(そう言うと思った)
声は言った。
(では、こうしよう)
上流の男が、ボールを持ち上げた。
(そこの、いちばん若いの。木に登っていた男だ)
亮の背中が、凍った。
(そいつに当てる。……そのあと、お前たちがどうするか、見せてもらう)
◇
「──外山さん! 伏せて!」
亮は叫んだ。
だが、遅かった。
男が投げた。
速い。斜面の上からの投球だ。落差がついている。
外山が、反射的に体を捻った。
球が、その左肩に当たった。
◇
「──っ、」
外山は、当たった瞬間、その場に固まった。
何も起きなかった。
首の輪は、鳴らない。
痛みだけがあった。
「……当たった」
彼は、自分の肩を押さえた。
「金松さん、俺、当たりました」
「──ボール!」
亮は叫んだ。
「ボールを見ろ!」
◇
球は、外山の肩で跳ねて、斜面を転がっていた。
落ちている。
地面に触れている。
だが、外山は死んでいない。
(──なぜだ)
亮の頭が、猛烈な速度で回転した。
黒スーツは言った。接触後、ボールが地面に触れたとき、判定が確定する。
いま、ボールは地面に触れている。
◇
(──安心しろ)
声が言った。
(今のは、判定装置を起動していない)
(何?)
(ボールは、こちらで起動と停止を切り替えられる)
声は言った。
(起動していない状態なら、ただのゴムボールだ。……当たっても死なん)
亮は、拳を握った。
(今のは、脅しだ)
◇
(見せておきたかった)
声は言った。
(お前たちは、今日来た。実感がないだろう。……当たった瞬間、何が起きるのかを、体で覚えておけ)
外山が、膝をついていた。
肩を押さえて、荒い息をしている。
死んでいない。だが、その顔は真っ白だった。
「……金松さん」
「はい」
「俺、今、死ぬと思いました」
◇
(次は、起動する)
声は言った。
(今日の夜だ)
(──夜?)
(暗くなれば、ボールが見えん)
声は言った。
(当たったかどうかも、落ちたかどうかも、分からなくなる)
亮の背中に、氷が滑り落ちた。
(拾いに行こうにも、どこに落ちたか分からん。……そういう時間帯を選ぶ)
◇
(お前たちは五人だ)
声は言った。
(五人で拾い合うつもりなのだろう。よく考えたと思う。……だが、闇の中では成立しない)
(……)
(では、夜に)
上流の二人が、斜面を登っていった。
転がったボールを、片方が拾い上げていく。
やがて、二人の姿は木立の中に消えた。
◇
五人は、しばらく動かなかった。
外山が、地面に座り込んだまま、自分の左肩を押さえている。
「……外山さん」
亮は、その隣に膝をついた。
「大丈夫ですか」
「痛いです」
外山は言った。
「めちゃくちゃ痛いです。……でも、死んでません」
彼は、自分の首の輪に触れた。
「これ、鳴りませんでした」
◇
「金松さん」
篠塚が言った。
「今の、聞こえたのはあなただけですね」
「はい」
「何を言われたんですか」
亮は、四人を見た。
昨夜、篠塚に言われたことを思い出した。
──あんたが一人で抱えて、断って、それで終わりでよかった。
だが。
「──夜に来るそうです」
亮は言った。
◇
「今のボールは、装置が止まってました。脅しです」
亮は続けた。
「次は起動します。夜です。……暗くて、ボールが見えない時間を狙ってくると」
四人が、黙った。
「なるほど」
篠塚が言った。
「拾えませんね」
「はい」
「見えないものは、拾えません」
◇
亮は、空を見上げた。
木立の隙間から、白い空が見える。
昼だ。
夜まで、まだ時間がある。
「──考えます」
亮は言った。
「日が暮れるまでに、何か考えます」
「金松さん」
外山が、座り込んだまま言った。
「無理だったら、言ってくださいね」
「え?」
「無理なのに考えてるふりされると、こっちが余計に怖いんで」
◇
亮は、その言葉に少し驚いて、それから、頷いた。
「分かりました」
「はい」
「無理だったら、無理だって言います」
亮は言った。
「その代わり、今はまだ言いません」
外山が、少しだけ笑った。
「……なんすか、それ」
「まだ、考えてないからです」




