第五十二話 最初の夜
最初の夜が来た。
島の夜は、亮が想像していたよりずっと暗かった。
街の光がない。月はあったが、木立の下までは届かない。三メートル先の人間の顔が見えない。
五人は、川から少し離れた岩陰に場所を取った。
背後が岩壁で、正面だけ開いている。囲まれにくい場所を、重信が見つけた。
「ハンドボールって、そういうの分かるんですか」
外山が聞いた。
「分かりませんよ」
重信は言った。
「ただ、背中を取られると死ぬのは、どの競技も同じです」
◇
見張りを二人ずつ立てた。
三時間ごとの交代。眠れる者から眠る。
最初の当番は、亮と篠塚だった。
二人は、岩陰の入口に並んで座った。
「金松さん」
「はい」
「肩、どうですか」
「動きません」
「左は」
「張ってます」
篠塚は、少し笑った。
「投げ手が二人いて、両方壊れてるチームですね」
◇
「篠塚さんは、どうですか」
「左肩は、外れたままです」
彼は、吊っていた布を外していた。
「動かすと痛いです。でも、動きます」
「無理しないでください」
「無理はします」
篠塚は言った。
「拾うのに、腕は二本欲しいので」
◇
亮は、その言葉を聞いて、少し黙った。
「篠塚さん」
「はい」
「投げないって決めたの、まだ変わりませんか」
「変わりません」
「拾うのは、いいんですか」
「拾うのは、いいです」
篠塚は、即答した。
「投げるのは、相手を殺すためです。拾うのは、味方を生かすためです。……同じ手を使いますけど、別のことです」
◇
闇の中で、虫の声がしていた。
時々、遠くで枝の折れる音がする。そのたびに、五人のうち誰かが身を起こした。
「──篠塚さん」
「はい」
「久我さんに、何を言われたんですか」
篠塚は、しばらく答えなかった。
「……三回戦の前の夜です」
彼は言った。
「あの人、俺のところに来て、こう言いました。あなたは投げないでください、って」
◇
「命令ですか」
「お願いです」
篠塚は言った。
「俺、断ろうと思ったんですよ。あんたに指図される筋合いはないって」
「断らなかった」
「断れませんでした」
彼は言った。
「あの人、こう言ったんです。……私はもう撃ちました、と」
◇
「一回戦で、三人殺したって」
篠塚は続けた。
「それで、俺に言いました。……自分は、撃たない人間を見たことがない、と」
「……」
「四十年、皿しか撃たなかった人が、そう言うんですよ」
篠塚は、膝を抱えた。
「ずるいですよね」
◇
亮は、答えなかった。
久我という男の顔が浮かんだ。
小柄で、痩せていて、丁寧すぎる喋り方をする、四十六歳のクレー射撃選手。
あの人は、篠塚を守るために自分を撃たせようとした。
そして、亮に撃たれた。
(──俺が撃った)
亮は、自分の左手を見た。
闇の中で、その輪郭も見えなかった。
◇
「金松さん」
「はい」
「雅人さんのこと、聞いていいですか」
亮の呼吸が、一度止まった。
「……はい」
「あの人、どういう人でしたか」
亮は、少し考えてから答えた。
「うるさい人でした」
「そうでしょうね」
「怖いときほど、よく喋るんです。中学のときからそうでした」
亮は言った。
「ランナー三塁でマウンドに集まると、一番くだらない冗談を言うのはあいつでした」
◇
「最期は」
篠塚が聞いた。
「笑ってました」
「そうですか」
「……いってぇ、って言ってから、笑いました」
亮は言った。
言いながら、喉が詰まった。
初めて口に出した。あの日から誰にも言わなかったことを、初めて言葉にした。
「……すみません」
「謝らないでください」
篠塚は言った。
「俺、甲本さんのとき、三日泣きませんでした」
◇
「四日目に、いきなり泣きました」
彼は言った。
「便所で、一人で。……あれ、たぶん、順番があるんですよ」
「順番」
「はい」
篠塚は言った。
「先に、やることがあると、泣けないんです。やることが終わると、泣きます」
彼は、闇の中で亮の方を向いた。
「金松さんは、まだ泣かなくていいです」
◇
交代の時間が来た。
大貫と外山が起きて、亮と篠塚が横になった。
地面は硬く、湿っていた。虫が這っている感触がある。
それでも、亮は眠った。
久しぶりの睡眠だった。
◇
叩き起こされたのは、まだ暗いうちだった。
「──金松さん!」
大貫の声だった。
亮は跳ね起きた。右肩に激痛が走ったが、構っていられなかった。
「どうしました」
「人が来ます」
大貫は、正面の木立を指した。
「三人。……いや、四人です」
◇
亮は、闇に目を凝らした。
見えなかった。
「どこですか」
「見えません」
大貫は言った。
「音です。足音が四つ」
柔道の選手だ、と亮は思った。この人は、目より先に体で気配を掴む訓練を、二十年やってきた人間だ。
「──全員起きてください」
亮は言った。
◇
五人が、岩陰の入口に並んだ。
背後は岩壁。逃げ場はない。だが、正面からしか来られない。
やがて、木立の中から声がした。
英語だった。
亮には、意味が分からなかった。
だが、その直後。
(──日本の五人だな)
頭の中に、声が流れ込んできた。
◇
(そうだ)
亮は、心の中で答えた。
(ほう。話せるのか)
声が言った。
男の声だった。落ち着いていて、低い。ロイドのような軽さはなかった。
(都合がいい。……交渉に来た)
(交渉)
(そちらは五人だ。多すぎる)
◇
(二人、こちらへ寄越せ)
声は言った。
(そうすれば、そちらは三人になる。……他の地域と同じ数だ。誰も、そちらを優先して狙わなくなる)
亮の背筋が、冷たくなった。
(寄越したら、その二人はどうなる)
(殺す)
声は、あっさり答えた。
(隠す気はない。二人殺せば、我々は数を稼げる。そちらは狙われなくなる。……悪い取引ではない)
◇
亮は、四人を見た。
闇の中で、四つの影が、亮の返事を待っている。
この会話は、亮にしか聞こえていない。
いま亮が「分かった」と答えれば、この四人のうち二人が死ぬ。そして誰も、亮が何を了承したのか知らないまま死ぬ。
──そういう構造になっている。
(断る)
亮は言った。
◇
(即答か)
(当たり前だ)
(考えろ。お前たちは今日着いた。水場は我々が押さえている。食料もだ)
声は言った。
(三日分の差がある。……そちらに、勝ち目はない)
(それでも断る)
(理由は)
(二人選べない)
亮は言った。
(俺には、選べない)
◇
沈黙があった。
それから、声が言った。
(──正直だな)
(あ?)
(できない、と言った。……嫌だ、とは言わなかった)
亮は、その指摘に、息を呑んだ。
(覚えておこう)
声は言った。
(お前は、選べるようになったら、選ぶ人間だ)
◇
木立の中で、影が動いた。
四つの足音が、遠ざかっていく。
やがて、虫の音だけが残った。
「──金松さん」
篠塚が言った。
「何を言われたんですか」
亮は、しばらく答えなかった。
答えられなかった。
◇
「……二人差し出せ、と」
亮は言った。
「そうすれば、五人が三人になって、狙われなくなると」
四人が、黙った。
「断りました」
「はい」
篠塚は、あっさり言った。
「そうでしょうね」
「篠塚さん」
「金松さん。……それ、俺たちに言わなくてよかったんですよ」
◇
「言わないと、フェアじゃないです」
「フェアじゃなくていいです」
篠塚は言った。
「あんたが一人で抱えて、断って、それで終わりでよかった。……言われた方は、こう思うんですよ」
彼は、闇の中で言った。
「もし断らなかったら、俺だったのかな、って」
亮は、その言葉に、何も返せなかった。
◇
夜が明けた。
誰も、それ以上眠れなかった。
朝の光が木立に差し込んだとき、外山が最初に立ち上がった。
「──腹減りましたね」
誰も答えなかった。
水は飲める。だが、二日目の朝になって、五人はまだ何も食べていなかった。
「食料、探しに行きましょう」
亮は言った。
「上流ですよ」
重信が言った。
「はい」
亮は言った。
「上流に行きます」




