↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/74

第四十八話 左

「ボールを、こっちに」


 亮は言った。


 白線の向こうで、久我が動かなかった。


「金松さん」


「投げてください」


「……あなたに投げれば、私はもう一度、同じことをします」


「知ってます」


 亮は言った。


「それでも、投げてください」


          ◇


 久我は、しばらく亮を見ていた。


 それから、球を軽く放った。


 白線を越えて、亮の足元に転がってくる。


 接触ではない。ただの、受け渡しだった。


「三十秒の計測を開始する」


 天井の声が言った。


 亮は、左手で球を拾い上げた。


          ◇


 残っているのは、七人だった。


 こちらは、亮を含めて七人。


 向こうは十人。うち投げ手が四人。


 勝てる数ではない。


 亮は、球を握ったまま、白線の向こうを見た。


(──どうやって勝つ)


 右肩は死んでいる。左では、まともに投げられない。


 柔道の男は、もう腕が上がらない。


 残る五人は、素人だ。


          ◇


(──拓海さん)


 亮は、心の中で呼んだ。


 二日前、あの人は四十四人を背負って、三十秒で策を出した。


 ──知らん。今から考える。


 あのとき、あの人は笑っていた。


(俺は、何を持ってる)


 亮は、自分の手を見た。


 左手。ひどい球しか投げられない、使い慣れていない腕。


 ──そして。


          ◇


(そうか)


 亮は、顔を上げた。


「──久我さん」


「はい」


「あなた、俺の球を捕れますか」


 久我の眉が、わずかに動いた。


「あなたの右腕は、動かないはずです」


「左で投げます」


「……先ほどの球ですか」


「はい」


 亮は言った。


「あれを、あと何球か投げます」


          ◇


「捕れますか」


「捕れるでしょうね」


 久我は、正直に答えた。


「あの球は、遅い。回転も不揃いです。……失礼ですが、小学生でも捕れます」


「そうですか」


 亮は頷いた。


「じゃあ、捕ってください」


          ◇


 亮は、投げた。


 ひどい球だった。


 ふらふらと、山なりに白線を越えて、久我の胸のあたりへ。


 久我は、それを両手で受け止めた。


「接触を確認」


 天井の声が言った。


 誰も死ななかった。


「──なるほど」


 久我は言った。


「捕らせて、時間を潰すつもりですか」


「違います」


 亮は言った。


「投げ方を、思い出してるだけです」


          ◇


 久我が、投げ返した。


 速い。狙いは正確だった。


 こちらの一人が、腕で受けて、そのまま溶けた。


 七人が、六人になった。


 だが、球は床に落ちた。こちらの誰かがそれを拾って、亮に渡した。


 亮は、また投げた。


 二球目。


 さっきより、少しだけましだった。


          ◇


 久我が捕る。


 久我が投げ返す。


 また一人、こちらが減る。


 亮が、また投げる。


 三球目。四球目。五球目。


 六人が、五人になった。四人になった。


 そのたびに、亮の左腕は、球の重さを覚えていった。


          ◇


「──金松さん」


 久我が、六球目を捕りながら言った。


「あなた、何をしているんですか」


「投げてます」


「捕らせているだけでしょう」


「はい」


「そのあいだに、そちらは四人まで減りました」


 久我は言った。


「私は、あなたの仲間を撃ち続けています。……分かっていますか」


「分かってます」


 亮は言った。


 その声は、自分でも驚くほど静かだった。


          ◇


「七球目、行きます」


 亮は、左足を引いた。


 球を、左手に握る。


 六球投げて、指がようやく縫い目のないゴムの表面に馴染んできた。


 右で投げていたときの感覚が、少しずつ左に移ってくる。


 十四年、右で繰り返した動作。下半身から順に力が上がっていき、最後に指先で解放される。


 その順番は、左右が違っても同じだ。


          ◇


 亮は、投げた。


 ──ズッ。


 球が、床すれすれを滑った。


 床から、五センチ。


 跳ねない。後ろ回転がかかって、まっすぐ加速していく。


 久我の目が、初めて大きく開いた。


「──っ!」


 彼は、膝を落とした。


 左手を床すれすれまで下ろす。掌を上に向けて、掬い上げようとする。


 だが、その手は、届かなかった。


          ◇


 球は、久我の左足首を打った。


「XU3、アウト」


 天井の声が言った。


 部屋が、静まり返った。


 久我は、自分の足首を見た。


 それから、亮を見た。


 その顔に、驚きはなかった。


 あるのは、ただ、感心したような色だけだった。


          ◇


「……六球で」


 久我は言った。


「六球で、左に移しましたか」


「はい」


「たいしたものです」


 彼の輪郭が、崩れ始めていた。


 足首から、膝へ。


「金松さん」


「はい」


「私のが、いま、ずいぶん騒いでおります」


 久我は、少しだけ笑った。


「死にたくないそうです。……四十六年、一度もそんなことを言いませんでしたが」


          ◇


「久我さん」


「最後に、一つだけ」


 彼は言った。


「XW3の方を、頼みます」


「……はい」


「あの方は、この試合で誰も撃ちませんでした。……そういう人間が一人でも残れば、この競技は、たぶん失敗です」


 久我は、天井を見上げた。


「向こうさんにとって、そういうことでしょう」


          ◇


「金松さん」


「はい」


「あなたは、一回戦で四十人以上を撃ったと聞きました」


「……はい」


「では、あなたは私と同じ側です」


 久我は言った。


「もう戻れない。……ですが、それでも」


 輪郭が、胸まで来ていた。


「戻れない者にも、やれることはあります」


 彼は、亮を見た。


「戻らなくていい人を、守ることです」


          ◇


 床に広がったものは、湯気ひとつ立てなかった。


 白線の向こうで、九人が立ち尽くしていた。


 誰も、動かなかった。


 久我が消えた瞬間、その九人から何かが抜けたのが、亮にも分かった。


 拍も、号令も、指揮も、全部この一人が背負っていた。


「──投げます」


 亮は言った。


 左手に、球があった。


          ◇


 そこからは、短かった。


 九人のうち、まともに動けたのは三人だけだった。


 亮の左は、まだ不安定だった。三球に一球しか、あの球にならない。


 それでも、当たった。


 残った三人は、亮が投げるたびに、白線から下がった。逃げ場のない部屋で、下がり続けて、壁に背をつけた。


 最後の一人は、球が来る前に膝をついた。


「……頼む」


 彼は言った。


「痛くしないでくれ」


          ◇


「XU19、アウト」


 天井の声が言った。


「XBチーム全滅。XAチームの勝利」


          ◇


 誰も、歓声を上げなかった。


 立っているのは、四人だった。


 亮と、柔道の男と、名前を知らない男が二人。


 そして、白線の向こう側に、一人。


 競技から除外された男が、床の染みの間に立っていた。


          ◇


「篠塚さん」


 亮は、白線に向かって言った。


「……はい」


「終わりました」


「そうですね」


 篠塚は、周りを見回した。


 九つの染みがある。彼の周りに、それが散らばっている。


「金松さん」


「はい」


「俺、何もしませんでした」


「知ってます」


「これで、よかったんですかね」


          ◇


 亮は、答えるまでに時間をかけた。


「久我さんが、言ってました」


「……はい」


「誰も撃たない人間が一人でも残れば、この競技は失敗だって」


 篠塚は、しばらく黙っていた。


「……あの人らしいですね」


「はい」


「俺、あの人と二日しか一緒にいませんでした」


 篠塚は言った。


「でも、たぶん、いちばん俺のことを分かってくれてました」


          ◇


「──勝敗確定を確認」


 黒スーツが、端末を見た。


「XAチーム、四名生存。XBチーム、生存者なし」


 彼は、そこで一度、端末をスクロールした。


「なお、識別番号XW3。競技から除外された人員につき、勝敗の対象外」


 亮は、身構えた。


 処分される、と思った。


「……勝者チームへ編入する」


          ◇


「──え?」


 亮は、思わず声を出した。


「除外された人員は、どちらのチームにも属していない」


 黒スーツは、事務的に言った。


「敗者チームの人員ではない以上、処分の対象にはならない。……勝者側の残存人員として計上する」


「……それは」


「規則だ」


 黒スーツは端末を閉じた。


「残存者、五名」


          ◇


 亮は、白線の向こうを見た。


 篠塚が、自分の胸を見下ろしていた。


 XW3。


 除外されたはずの番号が、いま、彼を生かしていた。


「……ずいぶんですね」


 篠塚が、掠れた声で言った。


「なんですか、これ」


「篠塚さん」


「あいつら、俺を殺す規則も、生かす規則も、両方持ってるんですね」


 彼は、天井を見上げた。


「どっちを使うかだけ、決めてない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。