第四十八話 左
「ボールを、こっちに」
亮は言った。
白線の向こうで、久我が動かなかった。
「金松さん」
「投げてください」
「……あなたに投げれば、私はもう一度、同じことをします」
「知ってます」
亮は言った。
「それでも、投げてください」
◇
久我は、しばらく亮を見ていた。
それから、球を軽く放った。
白線を越えて、亮の足元に転がってくる。
接触ではない。ただの、受け渡しだった。
「三十秒の計測を開始する」
天井の声が言った。
亮は、左手で球を拾い上げた。
◇
残っているのは、七人だった。
こちらは、亮を含めて七人。
向こうは十人。うち投げ手が四人。
勝てる数ではない。
亮は、球を握ったまま、白線の向こうを見た。
(──どうやって勝つ)
右肩は死んでいる。左では、まともに投げられない。
柔道の男は、もう腕が上がらない。
残る五人は、素人だ。
◇
(──拓海さん)
亮は、心の中で呼んだ。
二日前、あの人は四十四人を背負って、三十秒で策を出した。
──知らん。今から考える。
あのとき、あの人は笑っていた。
(俺は、何を持ってる)
亮は、自分の手を見た。
左手。ひどい球しか投げられない、使い慣れていない腕。
──そして。
◇
(そうか)
亮は、顔を上げた。
「──久我さん」
「はい」
「あなた、俺の球を捕れますか」
久我の眉が、わずかに動いた。
「あなたの右腕は、動かないはずです」
「左で投げます」
「……先ほどの球ですか」
「はい」
亮は言った。
「あれを、あと何球か投げます」
◇
「捕れますか」
「捕れるでしょうね」
久我は、正直に答えた。
「あの球は、遅い。回転も不揃いです。……失礼ですが、小学生でも捕れます」
「そうですか」
亮は頷いた。
「じゃあ、捕ってください」
◇
亮は、投げた。
ひどい球だった。
ふらふらと、山なりに白線を越えて、久我の胸のあたりへ。
久我は、それを両手で受け止めた。
「接触を確認」
天井の声が言った。
誰も死ななかった。
「──なるほど」
久我は言った。
「捕らせて、時間を潰すつもりですか」
「違います」
亮は言った。
「投げ方を、思い出してるだけです」
◇
久我が、投げ返した。
速い。狙いは正確だった。
こちらの一人が、腕で受けて、そのまま溶けた。
七人が、六人になった。
だが、球は床に落ちた。こちらの誰かがそれを拾って、亮に渡した。
亮は、また投げた。
二球目。
さっきより、少しだけましだった。
◇
久我が捕る。
久我が投げ返す。
また一人、こちらが減る。
亮が、また投げる。
三球目。四球目。五球目。
六人が、五人になった。四人になった。
そのたびに、亮の左腕は、球の重さを覚えていった。
◇
「──金松さん」
久我が、六球目を捕りながら言った。
「あなた、何をしているんですか」
「投げてます」
「捕らせているだけでしょう」
「はい」
「そのあいだに、そちらは四人まで減りました」
久我は言った。
「私は、あなたの仲間を撃ち続けています。……分かっていますか」
「分かってます」
亮は言った。
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
◇
「七球目、行きます」
亮は、左足を引いた。
球を、左手に握る。
六球投げて、指がようやく縫い目のないゴムの表面に馴染んできた。
右で投げていたときの感覚が、少しずつ左に移ってくる。
十四年、右で繰り返した動作。下半身から順に力が上がっていき、最後に指先で解放される。
その順番は、左右が違っても同じだ。
◇
亮は、投げた。
──ズッ。
球が、床すれすれを滑った。
床から、五センチ。
跳ねない。後ろ回転がかかって、まっすぐ加速していく。
久我の目が、初めて大きく開いた。
「──っ!」
彼は、膝を落とした。
左手を床すれすれまで下ろす。掌を上に向けて、掬い上げようとする。
だが、その手は、届かなかった。
◇
球は、久我の左足首を打った。
「XU3、アウト」
天井の声が言った。
部屋が、静まり返った。
久我は、自分の足首を見た。
それから、亮を見た。
その顔に、驚きはなかった。
あるのは、ただ、感心したような色だけだった。
◇
「……六球で」
久我は言った。
「六球で、左に移しましたか」
「はい」
「たいしたものです」
彼の輪郭が、崩れ始めていた。
足首から、膝へ。
「金松さん」
「はい」
「私のが、いま、ずいぶん騒いでおります」
久我は、少しだけ笑った。
「死にたくないそうです。……四十六年、一度もそんなことを言いませんでしたが」
◇
「久我さん」
「最後に、一つだけ」
彼は言った。
「XW3の方を、頼みます」
「……はい」
「あの方は、この試合で誰も撃ちませんでした。……そういう人間が一人でも残れば、この競技は、たぶん失敗です」
久我は、天井を見上げた。
「向こうさんにとって、そういうことでしょう」
◇
「金松さん」
「はい」
「あなたは、一回戦で四十人以上を撃ったと聞きました」
「……はい」
「では、あなたは私と同じ側です」
久我は言った。
「もう戻れない。……ですが、それでも」
輪郭が、胸まで来ていた。
「戻れない者にも、やれることはあります」
彼は、亮を見た。
「戻らなくていい人を、守ることです」
◇
床に広がったものは、湯気ひとつ立てなかった。
白線の向こうで、九人が立ち尽くしていた。
誰も、動かなかった。
久我が消えた瞬間、その九人から何かが抜けたのが、亮にも分かった。
拍も、号令も、指揮も、全部この一人が背負っていた。
「──投げます」
亮は言った。
左手に、球があった。
◇
そこからは、短かった。
九人のうち、まともに動けたのは三人だけだった。
亮の左は、まだ不安定だった。三球に一球しか、あの球にならない。
それでも、当たった。
残った三人は、亮が投げるたびに、白線から下がった。逃げ場のない部屋で、下がり続けて、壁に背をつけた。
最後の一人は、球が来る前に膝をついた。
「……頼む」
彼は言った。
「痛くしないでくれ」
◇
「XU19、アウト」
天井の声が言った。
「XBチーム全滅。XAチームの勝利」
◇
誰も、歓声を上げなかった。
立っているのは、四人だった。
亮と、柔道の男と、名前を知らない男が二人。
そして、白線の向こう側に、一人。
競技から除外された男が、床の染みの間に立っていた。
◇
「篠塚さん」
亮は、白線に向かって言った。
「……はい」
「終わりました」
「そうですね」
篠塚は、周りを見回した。
九つの染みがある。彼の周りに、それが散らばっている。
「金松さん」
「はい」
「俺、何もしませんでした」
「知ってます」
「これで、よかったんですかね」
◇
亮は、答えるまでに時間をかけた。
「久我さんが、言ってました」
「……はい」
「誰も撃たない人間が一人でも残れば、この競技は失敗だって」
篠塚は、しばらく黙っていた。
「……あの人らしいですね」
「はい」
「俺、あの人と二日しか一緒にいませんでした」
篠塚は言った。
「でも、たぶん、いちばん俺のことを分かってくれてました」
◇
「──勝敗確定を確認」
黒スーツが、端末を見た。
「XAチーム、四名生存。XBチーム、生存者なし」
彼は、そこで一度、端末をスクロールした。
「なお、識別番号XW3。競技から除外された人員につき、勝敗の対象外」
亮は、身構えた。
処分される、と思った。
「……勝者チームへ編入する」
◇
「──え?」
亮は、思わず声を出した。
「除外された人員は、どちらのチームにも属していない」
黒スーツは、事務的に言った。
「敗者チームの人員ではない以上、処分の対象にはならない。……勝者側の残存人員として計上する」
「……それは」
「規則だ」
黒スーツは端末を閉じた。
「残存者、五名」
◇
亮は、白線の向こうを見た。
篠塚が、自分の胸を見下ろしていた。
XW3。
除外されたはずの番号が、いま、彼を生かしていた。
「……ずいぶんですね」
篠塚が、掠れた声で言った。
「なんですか、これ」
「篠塚さん」
「あいつら、俺を殺す規則も、生かす規則も、両方持ってるんですね」
彼は、天井を見上げた。
「どっちを使うかだけ、決めてない」




