第四十七話 撃たない人
久我の球は、速くなかった。
だが、一球も外れなかった。
最初の一球で、こちらの前列が一人減った。二球目で、後列が一人。三球目は誰かが避けて、その後ろの男に当たった。
十二人が、九人になった。
亮は、その光景を見ていた。
(──狙って撃ってる)
この人は、外さない。
クレーの皿を撃つように、人を撃っている。
◇
「──散れ!」
亮は叫んだ。
「固まるな! 間隔を空けろ!」
だが、九人はもう、うまく動けていなかった。
一時間以上、避け続けている。膝が上がらない。判断が遅れる。
こちらの投げ手は、柔道の男が一人だけ。その男も、もう三球に一球しか白線を越えられない。
向こうは十人。うち投げ手が四人。
(──詰みだ)
亮は、拳を握った。
右手だけが握れた。
◇
「亮!」
雅人が、隣に滑り込んできた。
「なあ、あれ見ろよ」
「なんだ」
「久我さん、球を持ったときしか前に出てこねえ」
亮は、白線の向こうを見た。
そのとおりだった。
久我は、投げるときだけ前列に出て、投げ終わるとすぐ後列に下がる。他の三人の投げ手が前で受け渡しをして、彼はその後ろで球を待っている。
「なんでだと思う」
「……体力だろうな」
亮は言った。
「四十六歳だ。動き続けたら保たない」
◇
「じゃあさ」
雅人が言った。
「あの人が前に出てくるタイミングで、あの人狙えばよくね」
「……」
「亮」
雅人は、真剣な顔をしていた。
「あの人、いい人だよ。話してて分かった。……でもさ、あの人が投げるたびに、うちの誰かが死んでんだよ」
亮は、答えられなかった。
「俺、ここで死ぬのは別にいい」
雅人は言った。
「でも、亮を先に死なせるのは無理だわ」
◇
九人が、七人になった。
柔道の男が、五球目を投げようとして、腕が上がらなくなった。
「──すみません」
彼は、その場に膝をついた。
「俺、もう」
「いいです」
亮は言った。
「よくないでしょう」
「よくないです」
亮は正直に言った。
「でも、あなたはもう十分投げました」
◇
ボールが、また向こうへ渡った。
久我が、後列から前へ出てくる。
小柄な男が、四人の投げ手の間を抜けて、白線の前に立つ。
その動きに、迷いがなかった。
亮は、その姿を見ていた。
(──撃たれる)
そして、思った。
(この人を、止めないと)
◇
「久我さん」
亮は言った。
「はい」
「一つだけ、聞きます」
「どうぞ」
「あなた、中の声と話せるって言いましたよね」
久我の動きが、止まった。
「……ええ」
「そいつは今、なんて言ってますか」
◇
久我は、答えなかった。
球を持ったまま、白線の前に立っている。
「久我さん」
「……うるさいくらいに、喋っています」
彼は、そう答えた。
「なんて言ってますか」
「勝てと」
「他には」
「……」
「他には、なんて言ってますか」
◇
久我は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「金松亮を、生かして残せと」
部屋の空気が、変わった。
「──なんでですか」
「あなたの中身が、欲しいのでしょう」
久我は、あっさり言った。
「私のは、そう考えています。……喰えば、記録に残らない。バレない餌だと」
亮は、拳を握った。
「じゃあ、あなたは」
「私は、従っておりません」
◇
「私は、あなたを撃ちます」
久我は言った。
「私のが生かせと言うなら、私は撃つ。……四十六年、そうやって生きてきました」
彼は、球を構えた。
「あなたが死ねば、あなたの中の子も死ぬ。……そうすれば、私のは何も得られません」
「久我さん」
「これが、私の勝ち方です」
◇
亮は、その言葉を聞いて、動けなかった。
この人は、勝つために自分を狙うのではない。
自分の中にいるものに、何も渡さないために、狙っている。
勝敗ではない。四十六年続いた喧嘩の、最後の一手だ。
(──グード)
亮は、心の中で呼んだ。
返事はない。
(起きてるか)
沈黙。
(お前、狙われてるぞ)
◇
久我が、腕を上げた。
亮は、動かなかった。
避けられないと思った。この人の球は外れない。左に逃げれば左に来る。右に逃げれば右に来る。
なら。
(──捕るしかない)
亮は、膝を落とした。
左腕を、体の前に出す。
右腕はぶら下がったままだ。片腕でこの球を捕れるかどうか、亮には分からなかった。
◇
久我が、投げた。
速くない。
だが、真っ直ぐだった。
狙いは──亮の右胸だった。
左腕では、届かない位置。
体を捻れば、右肩が使えない亮には、間に合わない。
(──っ)
亮の体が、動かなかった。
◇
その前に、影が入った。
「──っ!!」
誰かが、亮の前に飛び込んだ。
背中が見えた。
その背中に、球が当たる音がした。
鈍い、重い音。
「XV7、アウト」
天井の声が言った。
◇
「──雅人!!」
亮は叫んだ。
雅人は、亮の前に立ったまま、振り返った。
その顔が、笑っていた。
「……いってぇ」
「なんで!!」
「なんでって」
雅人は、自分の背中に手を回そうとして、右腕が動かないことを思い出したらしい。左手で背中を掻いた。
「そりゃ、行くだろ」
◇
彼の輪郭が、崩れ始めていた。
背中から、腰へ。
「馬鹿野郎! なんで!」
「うるせえな」
雅人は言った。
「亮、お前さ。……甲子園の決勝、覚えてる?」
「──やめろ」
「九回裏、二死満塁。お前の百三十二球目」
彼は、笑った。
「あんとき俺、打席で思ったんだよ」
◇
「ああ、こいつには勝てねえわ、って」
輪郭が、胸まで来ていた。
「でもさ。……勝てなくてもいいや、って思ったんだ、あんとき」
「雅人」
「こいつが投げるとこ、もっと見たいなって」
彼は、亮を見た。
焦点は、完全に合っていた。
「だから、それだけ」
◇
「──名前、覚えとけよ」
雅人が言った。
「え?」
「お前、十一人の名前覚えたんだろ。俺にも教えろって言ったよな」
彼の首から上だけが、残っていた。
「俺の名前も、入れとけ」
「……ふざけんな」
亮は言った。
「お前は、覚えるとかそういうんじゃねえだろ」
「そっか」
雅人は、笑った。
「じゃあ、いいや」
◇
床に広がったものは、湯気ひとつ立てなかった。
XV7のゼッケンが、床の上に残っていた。
汗と埃でくすんだ、白い文字。
甲本拓海が着ていた番号。篠塚が二度手放した番号。真柴が最後に雅人に着せた番号。
それが、床の染みの上に落ちていた。
◇
亮は、そこに膝をついた。
声は出なかった。
息の吸い方が分からなかった。喉が鳴るだけで、何も入ってこない。
誰かが、肩に手を置いた。
柔道の男だった。
彼も、何も言わなかった。
◇
「──申し訳ありません」
久我の声がした。
白線の向こうで、彼は深く頭を下げていた。
「私の球です。……言い訳はしません」
亮は、顔を上げた。
その顔を見て、久我の動きが止まった。
「金松さん」
亮は、立ち上がった。
右腕は動かない。左腕しかない。投げられる球は、さっきのひどい一球だけだ。
それでも、亮は言った。
「──ボールを、こっちに」




