第四十六話 撃ち方
「──断ります」
亮は言った。
「そうでしょうね」
久我は、少しも驚かなかった。
「ですが、他に手がありますか」
「探します」
「三十秒で?」
亮は、答えられなかった。
天井の声が、また計測を始めていた。ボールは向こうにある。投げなければ、向こうから一人減る。
どちらに転んでも、誰かが死ぬ。
◇
「金松さん」
久我は、丁寧に言った。
「私は、四十六年生きました。うち四十年は、的を撃つことに使いました」
彼は、球を軽く持ち上げた。
「二十九人を、二回戦で一人も死なせずに通しました。あれは私の人生でいちばん上手くいった仕事です。……もう、十分なんですよ」
「そんな言い方はやめてください」
「本音です」
「本音でも、やめてください」
亮は言った。
「俺は、その言い方をする人を何人も見送りました」
◇
久我の動きが、止まった。
「──二日前」
亮は続けた。
「十一人が、自分でボールを抱えて死にました。全員、同じ顔をしてました。あなたと同じ顔です」
「……」
「その人たちの名前を、俺は覚えてます。それだけです。それしか、俺にはできなかった」
亮は、白線の向こうを見据えた。
「だから、断ります」
◇
久我は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「困りましたね」
「はい」
「では、こうしましょう」
彼は、球を構えた。
「私が投げます。あなたが捕ってください」
「──え?」
「捕れば、接触です。計測は止まる」
久我は言った。
「そして、球はそちらに渡る。……そのあと、どうするかは、あなたが決めてください」
◇
「久我さん、それは」
「私の球は、速くありません」
久我は、あっさり言った。
「四十六歳ですから。……ですが、狙ったところには行きます」
彼は、亮を見た。
「あなたの左腕に投げます。使える方の腕です」
「……」
「捕れますね?」
亮は、膝を落とした。
左腕を、体の前に出す。
右腕は、ぶら下がったままだった。
◇
久我が投げた。
速くない。
だが、真っ直ぐだった。ぶれない。回転が均一で、軌道が一切揺れない。
あれは、狙って投げている人間の球だ。
球は、亮の左腕の内側に、吸い込まれるように入ってきた。
左手だけで抱え込む。右腕が使えないので、腹に押しつけて挟む形になった。
「──確保!」
雅人が叫んだ。
◇
「お上手です」
久我が言った。
「久我さん」
「さあ、あなたの番です」
亮は、球を左手に持ったまま立ち上がった。
十人。
白線の向こうに、十人が立っている。
そのうち四人が投げ手だ。この四人が残っている限り、こちらは削られ続ける。
そして、右端に一人。
両手を体の横に下ろした男が、こちらを見ていた。
◇
(──投げ方は、一つじゃない)
亮は、思った。
拓海は、逃げる先に置いてくる球を投げた。
グロウは、地面を這う球を投げた。
久我は、狙ったところへ真っ直ぐ通す球を投げた。
そして自分は、右肩が壊れている。
どれも使えない。
(──なら)
亮は、左手の球を見た。
(左で投げるか)
◇
亮は、左足を引いた。
二十歳になるまで、亮は一度も左で投げたことがない。キャッチボールの遊びで放ったことすら、記憶にない。
だが、投げるという運動の骨格は知っている。
下半身から順に力が上がっていき、最後に指先で解放される。
その順番だけは、体が知っている。
「──金松さん」
久我が、少し驚いたように言った。
「左を?」
「一球だけです」
◇
亮は、投げた。
ひどい球だった。
速くない。回転もめちゃくちゃで、狙いも大きく外れた。白線を越えた球は、誰もいない場所へふらふらと飛んでいく。
誰にも当たらない。
「──金松!」
雅人が叫んだ。
「接触ねえぞ!」
分かっている。
このままなら、計測が切れて、こちらから一人減る。
だが、亮の目は、球ではなく、その先を見ていた。
◇
球は、白線の向こう、いちばん右端に飛んでいた。
XW3の、すぐ横へ。
篠塚が、その軌道を目で追った。
当たる位置ではない。彼が動かなければ、球はそのまま壁へ届く。
だが。
篠塚は、動いた。
半歩だけ。
そして、その肩に、球が触れた。
◇
「接触を確認。計測を停止する」
天井の声が言った。
部屋が、静まり返った。
篠塚は、肩に触れた球が床に落ちるのを見て、それから、亮を見た。
その顔に、少しだけ、呆れたような色があった。
「……金松さん」
「はい」
「今の、わざとですね」
「外しました」
「嘘つき」
◇
亮は、答えなかった。
篠塚は、足元に落ちた球を見下ろした。
拾わない。
しゃがみもしない。
「金松さん」
「はい」
「俺、投げませんよ」
「知ってます」
「じゃあ、なんで俺のところに投げたんですか」
◇
「あなたが、いちばん確実に受けてくれるからです」
亮は言った。
「──ふざけてますね」
「はい」
「投げない男に、接触だけさせるって」
「そうです」
亮は言った。
「あなたは、誰も当ててない。俺も、あなたを当ててない。……いまの一球で、誰も死んでません」
篠塚は、しばらく黙っていた。
それから、天井を見上げた。
「……甲本さんが聞いたら、笑いますよ」
◇
「──なるほど」
久我が、白線の向こうで手を打った。
「そういう手がありましたか」
彼は、亮を見た。
「あなたは、私に当てなかった。私も、あなたを殺せない。……そして、その方が接触を受け続ける限り、両チームとも減りません」
「はい」
「ですが、金松さん」
久我の顔から、笑みが消えた。
「それは、あの方一人に、全部背負わせるということです」
◇
亮の呼吸が、止まった。
そのとおりだった。
この方法が続く限り、球は必ず篠塚のところへ飛ぶ。両チームの三十秒を、あの人一人が受け止め続けることになる。
誰も死なない。
その代わり、一人だけが、永遠に的になる。
「──金松さん」
篠塚が言った。
「いいですよ、それで」
「篠塚さん」
「俺、捕るのが仕事なんで」
◇
「──中止する」
天井の声が、それを断ち切った。
全員が、動きを止めた。
部屋の隅から、黒スーツが歩み出てきた。
「両チームともに、勝敗を確定させる意思が認められない」
「規則は守ってます」
亮は言った。
「知っている」
黒スーツは頷いた。
「だから、規則を追加する」
◇
「これより、識別番号XW3を、競技から除外する」
部屋が、凍りついた。
「──は?」
亮の口から、間の抜けた声が出た。
「当該人員は、いずれのチームにも属さない。接触の対象にもならない」
黒スーツは、端末を見たまま言った。
「実質的に、この試合において存在しないものとして扱う」
◇
「……ちょっと待ってください」
亮は、白線に駆け寄った。
「除外って、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「その人は、どうなるんですか」
「試合終了まで、そこにいろ」
黒スーツは、篠塚に向かって言った。
「動くな。触るな。触れられるな」
◇
亮は、篠塚を見た。
白線の向こう側で、彼は立ち尽くしていた。
二日前、彼は番号を失った。そして今日、番号を返された。
その番号は、いま、競技から除外された。
あの人は、いる。呼吸している。目を開けている。
だが、この部屋には存在しないことになった。
「……篠塚さん」
篠塚は、答えなかった。
答えずに、少しだけ、笑った。
その笑い方が、亮にはいちばんきつかった。
◇
「計測を再開する」
黒スーツが言った。
ボールは、篠塚の足元に落ちたままだった。
誰かが、それを拾いに行かなければならない。
白線の向こうで、久我が動いた。
彼は、篠塚の足元から球を拾い上げて、それから、亮を見た。
「金松さん」
「……はい」
「もう、逃げ場がありませんね」
◇
「一つだけ、聞かせてください」
亮は言った。
「なんでしょう」
「あなた、なんであの人にこだわるんですか」
久我は、球を持ったまま、少し考えるような顔をした。
そして、答えた。
「私は四十年、的を撃ってきました」
彼は言った。
「クレー射撃というのは、飛んでいく皿を撃つ競技です。……四十年、私は一度も、生き物を撃ったことがありません」
◇
「四日前に、初めて撃ちました」
久我は言った。
「一回戦です。……九十九人が二十九人になった、あの試合です」
彼は言った。
「私は、ほとんど隅にいました。……ほとんど、です」
亮は、初めてそれを聞いた。
この人は、二回戦で一人も死なせなかったと言った。
だが、その前の試合の話は、していなかった。
「三球だけ、投げました」
久我は言った。
「三球で、三人死にました。……外さないもので」
彼は言った。
「その次に、あの方を見たんです。……投げないと決めた人を」
◇
「私には、もう無理です」
彼は、球を構えた。
「一度撃った人間には、戻れない。……ですから、まだ撃っていない人に、そのままでいてほしかった」
久我は、亮を見た。
「それだけです」
そして、腕を上げた。
「──さあ、金松さん」
彼の目が、初めて鋭くなった。
「本気で行きます」




