第四十五話 心臓の音
「──心臓の音」
亮は、その言葉を繰り返した。
白線の向こうで、二十二人が同時に半歩ずれる。
声はしない。合図もない。ただ、全員が同じ拍で動いている。
「メトロノームと同じです」
久我は言った。
「試合前に、私の脈で拍を取って、全員に覚えてもらいました。……四時間ほど、それだけを練習しました」
「四時間」
「ええ。他にやることもありませんでしたから」
◇
亮は、拳を握った。
この人は、待機区画の六時間のうち、四時間を使って二十二人に拍を叩き込んだ。
その間、亮が何をしていたか。
動かない男のベッドの脇に座っていた。
(──負けてる)
準備の量で、完全に負けている。
「金松さん」
柔道の男が言った。
「どうします」
◇
亮は、白線の向こうを見た。
二十二人が、一定の間隔で、左へ半歩、右へ半歩と揺れ続けている。
規則的だ。
規則的だということは。
(──読める)
「聞いてください」
亮は、周りに集まった仲間に言った。
「向こうは、一定の拍で動いてます。だったら、こっちも数えればいい」
「数える?」
「あの人たちの動きを、目で数えるんです」
◇
「俺は野球をやってました」
亮は言った。
「投手は、走者を刺すために、相手のクセを数えるんです。何秒でスタートを切るか、何回目のモーションで走るか。……あれと同じです」
「でも、あの速さで数えるって」
「ゆっくりです」
亮は言った。
「一定の拍って、思ってるより遅い。人間が二十二人で揃えられる速さには、限界があります」
彼は、白線の向こうを見つめた。
「三回見れば、次が分かります」
◇
こちらのボールだった。
跳ね返りを、こちらの前列が確保している。
「三十秒の計測を開始する」
亮は、目を細めた。
──右。
──左。
──右。
拍が、体に入ってきた。
思ったより、遅い。人間が二十二人で揃えられる拍は、心臓の鼓動より少し遅い程度だ。
「──今です」
亮は言った。
「次の拍で、あの人たちは左に来ます。……その先を狙ってください」
◇
柔道の男が投げた。
球は、白線を越えた。
二十二人が、左へ半歩ずれる。
ずれた先に、球があった。
「ドッ」
鈍い音がした。
白線の向こうで、一人が膝を押さえて崩れた。
「XU8、アウト」
◇
こちら側が、わずかにざわめいた。
歓声は上がらなかった。この二十二人は、もう歓声を上げるような状態ではない。
亮は、白線の向こうを見た。
久我が、こちらを見ていた。
そして、頷いた。
「見事です」
彼は言った。
「三球で解かれるとは思いませんでした」
「久我さん」
「ですが、金松さん」
久我は、静かに言った。
「これで、あなたも同じ立場になりました」
◇
亮の背筋が、冷えた。
「解かれた仕掛けは、次から使えません」
久我は言った。
「私どもは、これから拍を捨てます。……そして、あなたも号令を捨てた」
彼は、両手を広げた。
「お互い、指揮の手段を失いました。ここから先は、二十二人が二十二人分の判断で動く。……何が起きるか、私にも分かりません」
「……」
「そういう試合になります」
◇
そこからは、消耗戦だった。
誰も、指揮を執らなかった。
誰も、陣形を維持できなかった。
球が飛ぶたびに、二十二人がそれぞれの判断で避け、跳ね返りを拾い、また投げる。誰かの避けた球が、後ろの誰かに当たった。
亮は、それを何度も見た。
拓海が二日前に警戒していた崩れ方だった。
──五十人が固まってれば、一投で二人、三人死ぬこともある。避けた奴のせいで、後ろの奴が死ぬ。
◇
二十二人が、十八人になった。
向こうも、十七人になった。
「亮!」
雅人が、後列から叫んだ。
「右! こっち来る!」
亮は、体を捻った。
球が、脇腹をかすめて通り過ぎた。
右腕が使えないので、避け方が半分になる。左に逃げるのは早いが、右へは体を回すしかない。
「サンキュー」
「礼はいい! 次来るぞ!」
雅人は、動かない右腕をぶら下げたまま、亮の後ろを走り回っていた。
投げられない。捕れない。それでも、目だけは使える。
◇
時間の感覚が、なくなっていった。
何分経ったのか、何球投げられたのか、亮には分からなかった。
ただ、人が減っていく。
十八人が、十五人になった。
向こうも、十三人になった。
その中で、一人だけ、動いていない男がいた。
◇
XW3。
篠塚は、白線から五歩下がった位置に立っていた。
両手を体の横に下ろしたまま。
球が飛んでくれば、最小限の動きで避ける。それ以外は何もしない。投げない。拾わない。
誰も、彼を狙わなかった。
こちら側は、亮が全員に伝えていた。あの人には投げるな、と。
向こう側は、彼に球を渡さなかった。渡しても投げないと分かっているからだ。
◇
だが、それは長く続かなかった。
「──おい!」
向こう側の誰かが叫んだ。
「そこの! なんで突っ立ってんだ!」
篠塚は、答えなかった。
「投げろよ! こっちは減ってんだぞ!」
「俺は投げません」
篠塚は、静かに答えた。
「あぁ!?」
「投げないと決めました」
◇
「ふざけんな!」
その男が、篠塚に詰め寄った。
「お前がサボってるぶん、俺たちが死んでんだよ!」
「そうですね」
「そうですねじゃねえだろ!」
「はい」
篠塚は、否定しなかった。
「俺のせいで、あなたたちが死にます。……それは本当です」
亮は、白線のこちら側でその会話を聞いていた。
胸の奥が、締めつけられた。
◇
「じゃあ、なんで」
「二日前に」
篠塚は言った。
「俺は、体を取られてました。……そのとき、二十人くらい溶かしました」
男が、言葉を失った。
「投げたのは俺の腕です。俺の指です。……俺じゃなかったって、みんな言ってくれます。優しいですよね」
篠塚は、自分の右手を見た。
「でも、感触が残ってるんですよ」
◇
「だから、もう投げません」
彼は言った。
「あなたが俺を殴っても、罵っても、それは変わりません。……好きにしてください」
男は、拳を握ったまま立っていた。
殴らなかった。
やがて、その拳を下ろして、背を向けた。
「……勝手にしろ」
◇
「──XA、十二名。XB、十名」
天井の声が、途中経過を読み上げた。
亮は、荒い息をしていた。
右肩が焼けるように痛い。何度も体を捻ったせいだ。避けるだけで、これほど体力を使うとは思っていなかった。
白線の向こうを見る。
十人。
その中に、久我がいた。
彼も、息を切らしていた。四十六歳の体で、一時間近く避け続けている。
◇
「金松さん」
久我が言った。
「そろそろ、決めましょうか」
「……何をですか」
「勝ち方です」
彼は、跳ね返ってきた球を受け取った。
「このまま続ければ、どちらかが全滅します。……私どもが十人、そちらが十二人。数の上では、あなたが有利だ」
「……」
「ですが、あなた方には投げ手がいない」
久我は言った。
「そちらで一番投げられるのは、あの柔道の方でしょう。……もう腕が上がっていません」
◇
亮は、後ろを見た。
柔道の男が、膝に手をついていた。肩が大きく上下している。
その通りだった。
彼は素人だ。この一時間で、五十球近く投げている。
「対して、私どもには、まだ四人残っています」
久我は言った。
「投げられる者が、四人」
亮は、白線の向こうを見た。
十人のうち四人。
こちらは十二人のうち、たぶん一人。
◇
「詰みですね」
久我は、あっさり言った。
「ですので、提案があります」
「……なんでしょう」
「あなたが投げてください」
亮は、久我の顔を見た。
「俺は、肩が」
「存じております」
久我は言った。
「一回戦で、四十人以上を溶かした腕でしょう。……もう振れないことも、聞いています」
「じゃあ、なんで」
「一球だけです」
◇
「一球投げて、私に当ててください」
部屋の空気が、止まった。
「──何を言ってるんですか」
「私が消えれば、あちらの十人は指揮を失います」
久我は、平然と言った。
「拍も号令も使えない状態で、頭がいなくなる。……そちらの十二人なら、押し切れるでしょう」
「久我さん」
「代わりに、条件があります」
彼は、白線の向こうから亮を見た。
「XW3の方を、最後まで残してください」




