第四十三話 XW3
六時間は、短かった。
亮は、動かない男のベッドの脇に座っていた。
名前は、まだ分からない。誰も知らなかった。二十九人のうちの一人で、篠塚に触れて、そのまま戻ってこなくなった男だ。
呼吸はしている。瞼は閉じている。
時々、指が動いた。それが意識のあるしるしなのか、ただの反射なのか、亮には判断がつかなかった。
「金松さん」
篠塚が、隣に座った。
「俺のせいですよね」
「違います」
「違わないでしょう」
篠塚は、静かに言った。
「俺が受け入れてたら、この人は起きてました」
◇
「受け入れてたら、あなたが消えてました」
亮は言った。
「そうですね」
「じゃあ、同じです」
「同じじゃないですよ」
篠塚は、動かない男の顔を見ていた。
「俺は選べた。この人は選べなかった。……それだけの違いです」
亮は、答えられなかった。
そのとおりだった。この男は、自分の中にいるものに囁かれて、言われたとおりに手を伸ばしただけだ。
選択をしたのは、篠塚と、その中にいた何かだ。
◇
扉が開いたのは、その直後だった。
黒スーツが四人。
いつもより一人多い。
部屋の全員が立ち上がった。四十四人。
「三回戦の編成を発表する」
真ん中の男が端末を開いた。
「その前に、二件、処理を行う」
亮の背中に、嫌なものが走った。
◇
「一件目。……そこの人員だ」
黒スーツが、動かない男のベッドを指した。
「識別番号XU12。競技への使用が不可能と判断した」
「──待ってくれ」
亮は、立ち上がっていた。
「この人は生きてる。呼吸してる」
「動作しない」
「時間が経てば戻るかもしれない」
「三回戦は六時間後だ」
黒スーツは、まったく声を荒らげなかった。
「回収しろ」
◇
二人が、担架を運び込んだ。
誰も、止めなかった。
亮は、拳を握った。右手だけが握れた。
久我が、少し離れたところに立っていた。その表情は動いていなかったが、視線だけが担架を追っていた。
運び出されるとき、男の指が、また少し動いた。
扉が閉まった。
「──なあ」
雅人が、ベッドの上で言った。
「あれ、どうなるんだ」
「聞くな」
亮は言った。
自分の声が、思ったより低くて、驚いた。
◇
「二件目」
黒スーツは、端末に目を戻した。
「識別番号を持たない個体について、判断を確定する」
部屋の空気が、変わった。
全員が、壁際の男を見た。
篠塚は、胸に何も着けないまま立っていた。
「そちらへ」
黒スーツが手招きした。
篠塚は、少しだけ亮を見てから、歩いていった。
◇
黒スーツは、畳まれた布を差し出した。
「着用しろ」
「……これは」
「登録を確定する。以後、この番号で管理する」
篠塚は、それを受け取った。
広げて、胸元に当てた。
亮は、その文字を見た。
──XW3。
◇
部屋が、静まり返った。
XW。
二日前に全滅したチームの記号だ。
そして3は、篠塚がこの部屋に来る前に着けていた番号だった。白線の向こうで、肘を耳の横まで上げて、味方を溶かしていたときの番号だ。
「……ずいぶんですね」
篠塚が言った。
「新しい番号を、作る手間を惜しんだのか。それとも」
「記録の整合のためだ」
黒スーツは答えた。
「一度発行した番号を、再発行することはない。あなたは元からXW3だ。……途中の記録が欠けていただけだ」
◇
亮は、篠塚の顔を見た。
その顔から、表情が抜けていた。
拓海が命を捨てて渡した番号を、篠塚は雅人のために手放した。そのあいだ彼は、番号のない人間として二日を過ごした。
その二日は、記録の上では、欠けていただけだった。
最初から、彼はXW3のままだった。
「篠塚さん」
亮は言った。
「それでも、あなたは選んだ」
篠塚は、答えなかった。
ただ、そのゼッケンを頭から被った。
◇
「編成を発表する」
黒スーツは、端末を操作した。
「残存四十四名を、二十二名ずつに分割する。呼称はXAおよびXB。……ゼッケンは現行のものを使用する。所属は名簿で管理する」
亮は、その一言に引っかかった。
(──ゼッケンは、そのまま)
つまり、胸の番号を見ても、どちらのチームか分からない。
白線の向こうに立つまで、誰が敵かも分からない。
「番号を読み上げる。XAチーム」
◇
「XV1」
亮だった。
「XV7」
雅人だ。
亮は、少しだけ息を吐いた。
この男とは、また同じ側にいられる。
「XV19、XV27、XV33……」
読み上げが続いた。
亮は、名前を呼ばれた者たちの顔を見ていた。
二回戦を生き延びた十四人のうち、十一人がこちら側だった。残りの十一人は、向こう側の二十九人から選ばれている。
「──以上、XAチーム二十二名」
黒スーツは端末を閉じた。
◇
呼ばれなかった者が、部屋の反対側に集まっていく。
その中に、二人の顔があった。
久我。
そして、篠塚。
亮は、その二人を見て、動けなくなった。
──あなたと、番号のない方の間です。
久我の言葉が、頭の中で反響した。
あの人は、二日前にこれを予測していた。
◇
「金松さん」
久我が、こちらへ歩いてきた。
黒スーツは止めなかった。試合まで、まだ六時間ある。
「当たってしまいましたね」
「……はい」
「私の見立てが正しかったことを、こんな形で確認したくはなかったのですが」
久我は、少しだけ肩をすくめた。
「あちらの二十二名、投げられる者が七人います」
「七人」
「そちらは」
亮は、自分の右腕を見た。
「……分かりません。まだ数えてない」
「では、数えておいてください」
久我は言った。
「たぶん、二人か三人です」
◇
「久我さん」
「はい」
「あなた、どうするつもりですか」
「勝ちます」
久我は、あっさり答えた。
「二十九人を一人も死なせずにここまで来ました。……ですが、今日は無理です。どちらかが全滅する」
「二回戦みたいに、座るのは」
「同じ手は二度通りません」
久我は言った。
「私が二回戦でやったことは、向こうも把握しています。同じことをすれば、規則を追加されて潰される。……あなたも、経験があるでしょう」
亮は、頷いた。
◇
「ですから、私は普通に戦います」
久我は、そう言った。
「二十二名で、そちらの二十二名を減らします。……申し訳ありません」
「……はい」
「一つだけ、お願いがあります」
「なんでしょう」
「番号のない方──いえ、XW3の方を」
久我は、少しだけ言い直した。
「あの方を、狙わないでいただきたい」
◇
亮は、久我の顔を見た。
「……なぜ、あなたがそれを頼むんですか」
「あの方は、私どもの側で唯一、この試合を望んでいない人間です」
久我は言った。
「昨夜、私に言いました。自分は誰も当てないと。……それでも、白線の前には立つそうです」
「……」
「あの方が誰にも当てず、あなたも彼を狙わない。そうすれば、この試合で確実に一人だけは、誰も殺さずに終われます」
久我は、丁寧に頭を下げた。
「せめて、一人だけでも」
◇
六時間後。
地下第三区画の扉が開いた。
窓のない部屋。学校の体育館ほどの広さ。床の中央に、一本の白い線。
三度目だった。
亮は、その線を見て、思った。
初めてこの部屋を見たとき、五十人で入った。二度目は十八人だった。今は二十二人。
数字だけが動いて、部屋は何ひとつ変わらない。
◇
反対側の扉が開いた。
二十二人が入ってくる。
先頭に、小柄な男が歩いていた。四十六歳のクレー射撃の選手が、二十一人を後ろに従えて、白線の手前まで来て止まった。
その隊列は、驚くほど整っていた。
誰も走らない。誰も喋らない。全員が、同じ歩幅で歩いてきた。
久我が、亮に向かって軽く会釈をした。
亮も、返した。
◇
その後ろに、篠塚がいた。
XW3。
彼は、白線の向こう側で立ち止まると、両手を体の横に下ろした。
構えもしない。逃げる姿勢も取らない。
亮と目が合った。
篠塚は、少しだけ口の端を持ち上げた。
そして、白線越しに、聞こえるくらいの声で言った。
「──金松さん」
「はい」
「甲本さんなら、どっちに入ってたと思います?」




