第三十九話 コピー
合図はなかった。
進行役が手を下ろした、それだけだった。
白線を挟んで、四十人が同時に動いた。
球が、天井の岩肌から落ちてくる。三つあった。この大会では、ボールが一つではないらしい。
最初の悲鳴が上がるまで、五秒もかからなかった。
◇
亮は、白線の脇に立っていた。
誰にも見えない体で、その乱戦を見ていた。
地下室で見たものとは、まるで違った。
規律がない。陣形もない。誰も号令を出さない。四十人が、それぞれの判断で走り、投げ、避けている。
当たった者は、溶けた。
湯気ひとつ立てずに、床の岩に染みを作った。
観覧席から、歓声が上がった。
(──娯楽か)
亮は、拳を握った。
◇
その中で、グロウだけが違った。
彼は、走っていなかった。
白線から三歩下がった位置に立って、動かない。
球が飛んでくると、最小限の動きで避ける。半歩か、体を捻るだけ。それ以上は動かない。
そして、球が味方の手に渡ると、一言だけ言った。
「よこせ」
◇
渡された球を、グロウは投げた。
地面すれすれを、五センチ。
跳ねない。滑る。
狙われた男は、跳ぼうとして間に合わなかった。
「──ぐ」
膝から下が、崩れた。
二投目。三投目。
グロウは、走らなかった。位置を変えなかった。ただ、渡された球を投げるだけで、白線の向こうが減っていった。
観覧席が、湧いた。
「グルーだ!」
「まだやれるぞ、あいつ!」
◇
亮は、その投球を見ていた。
美しい、と思った。
無駄がない。速くもない。それなのに、当たる。
甲本拓海の投球と同じだった。相手が逃げる方向へ、置いてくる。
(……この人が、拓海さんと同じことをやってる)
星が違う。言葉が違う。空の色も、太陽の数も違う。
なのに、行き着く先は同じだった。
その事実に、亮は少しだけ救われた気がした。
◇
二十人だった白線の向こうが、十四人になった。
こちら側も減っていた。二十人が、十一人。
そして、ロイドは一度も投げていなかった。
彼は、白線の向こうの後方で、両手を膝に当てて、じっと立っていた。
その目が、グロウを見ている。
瞬きが少ない。
亮は、その様子に気付いて、背筋が寒くなった。
(──見てる)
あれは、観察している目だ。
◇
十七投目だった。
グロウが投げ、また一人が溶けた。
その直後、ロイドが動いた。
「はい、もらった」
彼は、味方の手から球を取り上げた。
そして、構えた。
亮の呼吸が、止まった。
その構えを、亮は知っていた。
右足の上げ方。左肩の入り方。腰の落ち具合。
グロウのフォームだった。
◇
「ズッ」
球が、地面すれすれを滑った。
五センチ。跳ねない。
こちら側の一人が、避けきれずに膝を打たれた。溶けた。
観覧席が、爆発した。
「出た!」
「マネっこだ!」
ロイドは、跳ね返った球を拾いながら、嬉しそうに言った。
「ね? できたでしょ?」
◇
グロウは、何も言わなかった。
ロイドは、二投目を投げた。同じ球だった。三投目も。
そのたびに、こちら側が一人ずつ減っていく。
十一人が、八人になった。
「すごいな、あいつ」
「グルーより上手いんじゃないか?」
観覧席の声が、亮の耳に届いた。
亮は、グードの方を見た。
着飾った大人たちの間で、小さな子供が身を乗り出していた。
その顔は、蒼白だった。
◇
「──なあ、ロイド」
グロウが、初めて口を開いた。
「はい!」
「お前、それ、どこで覚えた」
「見ました」
ロイドは即答した。
「ぼく、見たものは全部できるんです。子供の頃からそうで。……歩き方も、喋り方も、投げ方も」
彼は、自分の右手を眺めた。
「E地区にいたときは、便利がられました。人の真似して笑いを取ったりして。……でも、番号は剥がされちゃったんですけどね」
「なんでだ」
「区長の真似をしたら、怒られちゃって」
ロイドは、へへ、と笑った。
◇
試合は、続いた。
こちら側が、五人になった。
向こう側は、まだ十二人いる。ロイドが投げ、他の者が拾う。それだけの流れ作業になっていた。
グロウの息が、上がっていた。
背中の布に、赤い染みが広がっている。撃たれた傷が開いたのだと、亮には分かった。
彼は、まだ立っていた。
だが、投げる回数が減っていた。
◇
「グルーさん」
ロイドが、白線の向こうから言った。
「疲れました?」
「……別に」
「無理しないでくださいね。ぼく、あなたの試合が好きなだけなので」
その言い方に、悪意はなかった。
本当に、悪意がなかった。
亮は、それがいちばん恐ろしいと思った。
この若者は、人を殺している自覚が薄い。上手にできたことを褒めてほしいだけの顔をしている。
◇
やがて、こちら側は二人になった。
グロウと、もう一人。
その一人も、次の一投で溶けた。
残るは、グロウだけになった。
白線の向こうには、十一人。
観覧席が、静まり返った。
誰もが、終わりを予感していた。
「──さあ、どうする、グルー」
進行役が、楽しそうに言った。
「一人対十一人だ。……名勝負を期待しているよ」
◇
グロウは、ゆっくりと白線に歩み寄った。
そして、両手を体の前で構えた。
投げる構えではなかった。
亮は、その形を知っていた。
(──捕る構えだ)
ロイドが、首を傾げた。
「あれ?」
グロウは、動かなかった。
構えたまま、白線の三歩手前で、じっと立っていた。
「グルーさん、投げないんですか」
「……」
「投げてくれないと、ぼく、真似できないですよ」
◇
ロイドが投げた。
グロウは、膝を落として、それを両手で包み込んだ。
球が、腕の中に収まる。
ずしり、と亮の目にも重さが伝わった。
グロウは、その球を投げ返さなかった。
白線の向こうへ、ゆるく転がした。
「……え?」
ロイドが、その球を拾った。
「投げて、いいんですか?」
グロウは、また構えた。
◇
二球目。捕った。
三球目。捕った。
四球目。捕った。
観覧席が、ざわつき始めた。
「何をやってる」
「投げ返せよ!」
「金を賭けてるんだぞ!」
グロウは、聞いていなかった。
球が来る。捕る。転がして返す。また球が来る。捕る。
そのたびに、背中の染みが広がっていく。
顔は蒼白で、膝は震えていた。それでも、落とさなかった。
◇
亮は、その光景を見ていた。
喉の奥が、締めつけられていた。
──彼は、六人全員の球を捕った。一時間半、一度も落とさなかった。
クスターの声が、頭の中で響いた。
(……カツと、同じことをしてる)
この男は、四年前に自分が推薦した少年が見せたものを、いま、なぞっている。
番号を剥がされて、追われて、撃たれて、それでも同じことをしている。
◇
二十球を超えたあたりで、ロイドの投げ方が乱れ始めた。
速さが落ちた。狙いがぶれた。
二十五球目で、彼は投げるのをやめた。
「……あれ?」
ロイドは、球を持ったまま立ち尽くしていた。
その顔から、初めて笑みが消えていた。
「グルーさん」
「……」
「なんで、投げないんですか」
グロウは、答えなかった。
構えたまま、荒い息をしていた。
◇
「ぼく、これ、知ってます」
ロイドが言った。
その声が、少し震えていた。
「四年前に、見たんです。……選手権の決勝で」
亮の心臓が、跳ねた。
「一人だけ残って、ずっと捕ってた人がいました。ぼく、あれ見て、真似しようとしたんです」
ロイドは、自分の両手を見た。
「でも、できなかった」
彼は言った。
「フォームは全部覚えました。膝の落とし方も、指の開き方も、全部。……なのに、三十球で落としちゃうんです。何回やっても」
ロイドは、顔を上げた。
「なんでですか」
◇
グロウは、しばらく黙っていた。
それから、掠れた声で答えた。
「──お前、何のために捕ってた」
「え?」
「あいつは、あの日、何のために捕ってたと思う」
ロイドは、答えられなかった。
グロウは、白線の向こうを──いや、その先の観覧席を見上げた。
着飾った大人たちの間に、小さな子供が座っている。
「俺は」
グロウは言った。
「十七人分だ」




