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第三十七話 空いた椅子

 目が覚めたとき、亮の頭に最初に浮かんだのは、一つの数字だった。


 二万人。


 四年前、別の星の会場で、誰も殺さずに勝った男を見て叫んだ人間の数だ。


 そして、その男は三日後に処分された。


(……見せてはいけないものを、二万人に見せたからだ)


 亮は、天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。


 二日前、亮のやったことは、新しい発明ではなかった。


 四年前に一度潰されたものを、何も知らずに、もう一度やっただけだった。


          ◇


 起き上がって、亮は隣を見た。


 空だった。


 篠塚のベッドに、誰もいない。


 毛布はきちんと畳まれていた。この人はいつもそうする。二回戦のあとも、番号を失ったあとも、寝床だけは律儀に整える人だった。


「──雅人」


 亮は、反対側のベッドを揺すった。


「んあ?」


「篠塚さんは」


「……知らね。俺、寝てたし」


 雅人が身を起こして、左手で目をこすった。


「便所じゃねえの」


 亮は、部屋の奥を見た。


 シャワーと便所は、部屋の突き当たりにある。扉はない。仕切りの壁があるだけだ。


 その方向に、人が三人、立っていた。


          ◇


 亮は走った。


 右腕が使えないので、走り方が不格好になる。ベッドの間を抜けて、床に置かれた荷物を蹴飛ばして、突き当たりへ向かった。


 仕切りの陰に、篠塚がいた。


 壁を背にして立っている。吊った左腕をかばうように、体を斜めにして。


 その前に、三人の男が立っていた。


 全員、向こう側の二十九人だ。名前は知らない。


 いちばん手前の男が、右手を伸ばしていた。


 篠塚の肩に、届く距離まで。


「──やめろ!」


          ◇


 亮の声に、三人が振り返った。


「金松さん」


 篠塚の声は、驚くほど落ち着いていた。


「来ないでください」


「篠塚さん──」


「あなたが来たら、そっちが狙われます」


 男の一人が、亮を見て笑った。


「そうそう。あんたは後回しだよ」


「……」


「順番があるんだ。空いてる椅子が先」


          ◇


 亮は、その言葉に足を止めた。


 久我の言ったとおりだった。


 番号がなく、記録に載らず、中身が空いている。


「篠塚さんは、人だ」


 亮は言った。


「知ってるよ」


 手を伸ばしていた男が答えた。


 その声は、男自身の声だった。乗っ取られてはいない。


「でも、俺は死にたくねえんだよ」


 彼は言った。


「こいつが言うんだ。あの空っぽの奴に移れば、俺は解放されるって。……俺の中から出ていってくれるんだと」


          ◇


 亮は、その言葉の意味を理解した。


(──そういう誘い方をするのか)


 この男は、喰うために来たのではない。


 自分の中から寄生者を追い出したくて、その寄生者に言われるがまま、ここへ来ている。


「騙されてる」


 亮は言った。


「あ?」


「あんたが解放されるのは本当かもしれない。でも、そのあと篠塚さんがどうなるか、そいつは言ったか」


 男の動きが、わずかに止まった。


「……」


「言ってないだろ」


          ◇


「うるせえよ!」


 男が怒鳴った。


「じゃああんた、代わりに入られてくれんのかよ!」


「……」


「無理だろ! あんただって嫌だろ!」


 その通りだった。


 亮は、何も言い返せなかった。


 この男は、悪人ではない。別の会場で戦って生き残って、生きて帰りたいだけの人間だ。そして、そのために一番弱い場所を選んだ。


 誰でもそうする。


 二日前、亮も同じことをした。名前も知らない男に緩い球を投げて、彼が助かるかどうかも分からないまま、自分の三十秒を稼いだ。


          ◇


「──お好きにどうぞ」


 篠塚が言った。


 全員が、彼を見た。


「触りたければ、触ればいい。俺は逃げません」


「篠塚さん!」


「金松さん。……こういうのは、俺の得意分野なんですよ」


 篠塚は、壁に背を預けたまま言った。


「捕るのが、俺の仕事なんで」


          ◇


 男の手が、篠塚の肩に触れた。


 その瞬間、男の体が、糸を切られたように崩れた。


「──っ!」


 亮は駆け寄った。


 男は白目を剥いて、床に倒れていた。呼吸はしている。だが、動かない。


 そして篠塚は。


 立っていた。


 目を見開いて、壁に背を押しつけて、歯を食いしばって、立っていた。


「……篠塚さん!」


「──っ、く、」


 彼の体が、細かく震えていた。


          ◇


「入って、きた」


 篠塚は、掠れた声で言った。


「頭ん中で、……喋ってる」


「出せますか!」


「無理です」


 篠塚の膝が、折れかけた。壁に手をついて、なんとか支えた。


「押さえてるだけで、精一杯だ」


 残った二人の男が、後ずさっていた。


 自分たちが何を見ているのか、分かっていない顔だった。


「篠塚さん、聞いてください」


 亮は、その正面に膝をついた。


「そいつは、あなたの合意がないと定着できない」


「……なんで、分かるんですか」


「そいつらの星のことを、少し知りました」


          ◇


「あなたは、空いてる椅子じゃない」


 亮は言った。


「あなたは、番号を返した人だ」


 篠塚の目が、動いた。


「甲本さんの番号を、二回、手放した人だ。……勝手に座られる筋合いはない」


「……」


「言ってやってください。俺の中にいるのは、俺だけだって」


          ◇


 篠塚は、しばらく荒い息をしていた。


 それから、壁に頭を預けたまま、天井を見上げた。


 そして、掠れた声で、こう言った。


「……あのな」


 誰に向かって言っているのかは、明らかだった。


「悪いけど、うち、満室なんだわ」


          ◇


 篠塚の体が、大きく跳ねた。


「うっ、」


 背中が反り返り、そのまま前のめりに倒れる。亮が右腕を使えないまま、体で受け止めた。二人分の体重が床に落ちた。


 そして、静かになった。


「篠塚さん! 篠塚さん!」


「……」


「おい!」


「……はい」


 返事があった。


 篠塚が、床に伏せたまま片手を上げた。


「います。……俺だけ、います」


          ◇


(グード)


 亮は、心の中で呼んだ。


(今の、どうなった)


 返事はない。


 だが、亮は自分で答えを見つけていた。


 寄生者は、元の宿主から出た。出たあと、篠塚に定着できなかった。


 そして。


 ──僕たち、宿主の外では長く生きられない。


 亮は、床に倒れている男を見た。


 白目を剥いたまま、動かない。呼吸だけがある。


 中身が、いない。


「……起きろ」


 亮は、その男の肩を揺すった。


「おい、起きろ!」


 男は、目を開けなかった。


          ◇


「──どうしました」


 声がした。


 久我だった。騒ぎを聞きつけて、部屋の反対側から歩いてきていた。


 彼は、床に倒れた男を見て、それから篠塚を見て、状況を理解したらしい。


 膝をついて、倒れた男の瞼を指で開いた。


「……なるほど」


「久我さん、この人は」


「生きてはいます」


 久我は言った。


「ですが、私のが言うには……この方は、もう戻らないそうです」


          ◇


「戻らないって」


「入っていたものが抜けた瞬間に、宿主の意識も一緒に持っていかれることがあるのだそうで」


 久我は、静かに続けた。


「彼らは、宿主に相当深く入り込んでいます。十数年もいれば、どこまでが宿主で、どこからが客なのか、境目が曖昧になる。……無理に剥がせば、こうなります」


 亮は、床の男を見下ろした。


 名前も知らない男だった。生きて帰りたかっただけの男だった。


          ◇


「金松さん」


 久我が、亮を見た。


「まずいことになりました」


「……何がですか」


「この方の中は、今、空です」


 亮の背筋が、凍った。


 久我は、部屋の方を振り返った。


 照明の落ちた広い部屋で、四十いくつのベッドが並んでいる。そのあちこちで、身を起こした影が、こちらを見ていた。


「金松さん。……この部屋の空いた椅子は」


 久我は言った。


「一つから、二つに増えました」

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