第三十六話 伝説のカツ
「知らねえよ」
グロウは、片膝をついたまま答えた。
背中から流れたものが、砂に黒い染みを作っている。
「そうか。忘れたか」
屋根の上の男は、拡声器を下ろした。
その必要がなくなったからだ。彼は屋根の縁から飛び降りて、砂の上に着地した。白い制服が、朝の光を跳ね返している。
背が低く、痩せていて、顔に表情がなかった。
「久しぶりだ、グルー」
「……クスターか」
グロウは、その名を吐き捨てるように言った。
「C地区の区長様が、朝っぱらから孤児院にご出勤とはな」
「私の管区だ。当然だろう」
◇
亮は、その男を見ていた。
クスターと呼ばれた男の胸に、金属の板が下がっている。
そこに刻まれた文字を、亮は読んだ。
──E98。
(……E地区?)
C地区の区長のはずだ。だが番号はEから始まっている。
亮がそれを疑問に思ったのと同時に、グロウが言った。
「Eの九十八番が、Cの区長やってんだ。おかしいと思わねえのか」
「思わないな」
「そりゃそうだ。お前らは、そういう仕組みだもんな」
◇
「グロウ!」
グードが、車から飛び降りようとした。
「乗ってろ!」
グロウが怒鳴った。
「動くな。全員、乗ったまま動くな」
子供たちは、荷台で身を寄せ合っていた。十七人。まだ三人が、砂の上に立ち尽くしている。
クスターは、それを一瞥した。
「面白いことをする。……このまま逃げて、どうするつもりだ」
「知るか」
「知らないのか」
「行けるとこまで行く」
「相変わらずだな」
クスターは、わずかに首を傾げた。
「カツも、同じことを言っていた」
◇
グロウの動きが、止まった。
「……」
「覚えているだろう。第四十三回選手権。決勝戦」
クスターは、砂を踏んで一歩前に出た。
「あの試合は、いま思い出しても興味深い。私は現場にいた。二万人の観客も、全員見ていた」
「やめろ」
「彼は、最後の一人になった」
クスターは続けた。
「相手チームは残り六人。彼は一人。……普通なら終わりだ。だが彼は、六人全員の球を捕った」
◇
亮は、息を呑んだ。
「六人が、次々に投げた。彼は全部捕った。一時間半、一度も落とさなかった」
クスターの声には、感情がなかった。事実を読み上げているだけだった。
「相手の六人は、疲れて動けなくなった。そのうち二人が座り込み、三人が膝をつき、最後の一人は、ボールを持ったまま泣き出した」
「……」
「そして、あなたの推薦した選手は、最後まで一度も投げなかった」
◇
亮の背中が、粟立っていた。
──このゲームは、当てるゲームじゃない。ボールを持ち続けるゲームだ。
──こっちがボールを持ってる間、俺たちは絶対に死なない。
二日前、亮が地下室でやろうとしたことだった。
いや、二日前どころではない。二回戦のあの部屋で、亮は同じことを試みて、規則を追加されて潰された。
その原型が、四年前、この星の決勝戦にあった。
◇
「観客は熱狂した」
クスターは言った。
「一人も殺さずに勝った選手など、選手権の歴史にいなかったからな。……あの日、彼には名前がついた。伝説の、と」
彼は、そこで初めてグロウを見た。
「──伝説のカツ」
「黙れ」
「そして三日後、彼は失格になった」
◇
「規定違反だ」
クスターは、淡々と続けた。
「デス・ドッジは人口調整のための競技である。と、第一条に書いてある。……一人も減らさない試合は、競技の目的に反する」
「そんな条文、誰も読んでねえ」
「読んでいなくても、条文だ」
クスターは言った。
「番号を剥奪し、処分した。当然の処置だ」
◇
グロウは、答えなかった。
砂の上に、片膝をついたまま、動かなかった。
亮は、その横顔を見ていた。
四年前、この男は一人の孤児を推薦した。その孤児は勝った。誰も殺さずに勝った。二万人が熱狂した。
そして三日後に処分された。
「それだけなら、まだよかった」
クスターが言った。
「あなたが本当に思い出したくないのは、その次だろう」
◇
「──やめろ」
「死刑囚の家族は、同じく処分の対象となる」
クスターは、荷台に乗った子供たちを見た。
「彼には家族がいなかった。番号を持たない孤児だからな。……だが、届出上の所属はあった」
亮は、その視線の先を追った。
平屋の四角い建物。壁に描かれた文字。
──E地区第九孤児院。
「あの建物に登録されている全員が、彼の家族と見なされた」
◇
亮は、動けなくなった。
名簿の意味が、いま、逆から見えた。
第四十七次人口調整対象。二十人の子供。
彼らは、増えすぎたから選ばれたのではない。
カツという一人の少年が、誰も殺さずに勝ったから、その日から死ぬことが決まっていた。
「……つまり」
亮は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「あんたが」
グロウを見た。
「あんたが、この子らを名簿に載せたのか」
◇
「四年かかったな」
クスターは言った。
「処分は順次行われる。二十人まとめては処理できないからな。……ようやく順番が回ってきた」
彼は、グロウの前まで歩いてきた。
「そして、あなたはまた同じことをしている」
「……」
「あの子供に投げ方を教え、推薦しようとした。無効になったのは幸運だったな。……もし通っていたら、あの子は勝っていたかもしれない」
クスターは言った。
「そして、また誰かの家族が名簿に載る」
◇
「──違う」
グロウが、初めて声を出した。
低く、掠れていた。
「カツは、間違ってねえ」
「私は間違いだとは言っていない。規定違反だと言っている」
「同じことだろうが!」
グロウが立ち上がった。
背中から血を流しながら、それでも立った。
「あいつは、誰も殺さずに勝てるって証明したんだ! 二万人が見てた! 二万人が、それを見て叫んだんだよ!」
「そうだな」
「なのに、お前らは──」
「だから処分した」
クスターは言った。
初めて、その声にわずかな熱がこもった。
「見せてはいけないものを、二万人に見せたからだ」
◇
沈黙が落ちた。
乾いた風が、砂を運んでいく。
亮は、その場に立ち尽くしていた。
誰も殺さずに勝つ。
その一点を、この星は、四年前に潰していた。潰したうえで、地球に同じ競技を持ち込んだ。
二日前、亮が緩い球で誰かを生かそうとしたとき。
二十五人がキャッチボールをして笑ったとき。
あのとき天井から降ってきた声が、なぜあれほど早く規則を追加してきたのか。
──知っていたからだ。
この連中は、それが起きうることを、四年前に一度見ている。
◇
「グルー」
クスターは言った。
「その車は、どこまで行ける」
「……」
「西へ行けばD地区の検問。東は谷だ。北はΩ地区の境界で、南には海しかない」
彼は、両手を軽く広げた。
「この星に、逃げ場はない」
グロウは、答えなかった。
しばらく黙って、砂の上を見ていた。
それから、顔を上げた。
その顔に、亮の知らない表情が浮かんでいた。
諦めでも、怒りでもない。
もう決めた人間の顔だった。
「知ってる」
グロウは言った。
◇
「だから」
彼は、荷台の子供たちを振り返った。
十七人。その中ほどに、小さな影が立ち上がっている。
「この星から出す」
クスターの表情が、初めて動いた。
「……何と言った」
「聞こえただろ」
グロウは、砂の上に唾を吐いた。
「この星が全部駄目なら、外に出すしかねえだろうが」
「馬鹿な」
クスターの声が、鋭くなった。
「星外への移送は、Ω地区の管理だ。あなたに使える手段はない」
「あるんだよ」
グロウは言った。
「一つだけな」
◇
亮の視界の端が、白く滲み始めた。
──ざあ、と音がする。
(待て)
亮は、慌てた。
(まだだ。まだ聞いてない)
景色が、薄くなっていく。
消えかけた視界の中で、グロウが車の荷台に手をかけるのが見えた。
そして、その口が動いた。
最後に聞こえたのは、その一言だけだった。
「──裏の大会に、出る」




