第三十五話 バレない餌
「有名、というのは」
亮は、慎重に聞いた。
「私も、詳しくは分かりません」
久我は、床に腰を下ろした。亮も、それに倣った。
「私のが言うには、こういうことです。……その子は、本来は死んでいるはずの個体だそうで」
亮の指先が、冷たくなった。
「死んでいるはず」
「はい。名簿に載って、処分されたことになっている。記録の上では、この宇宙に存在していない」
久我は、丁寧な口調のまま言った。
「そういう個体を喰っても、記録は動かないのです」
◇
「──どういう意味ですか」
「彼らは、同胞を喰うと力が増すそうです」
久我は言った。
「ただし、喰えば記録が動く。誰それが消えた、と管理側に分かる。恩赦の枠を争っている以上、それは自分の場所を知られるということでもある」
「……」
「ですが、最初からいないことになっている個体を喰っても、何も動きません」
久我は、亮の目を見た。
「私のは、こう言いました。あれは、バレない餌だと」
亮は、しばらく声が出なかった。
◇
あの、乾いた塊を必死に飲み込んでいた子供のことを思った。
名簿を見上げて、爪先立ちで、下から三番目に指を止めた子供のことを。
あの子は、そこで死んだことにされた。
そして十四年、地球で亮の中にいて、いま、力を使い果たして眠っている。
その状態を、あいつらは餌と呼んでいる。
「……それを」
亮の声が、掠れた。
「それを、俺に伝える理由はなんですか」
◇
「二つあります」
久我は、指を二本立てた。
「一つは、警告です。この部屋には四十四人います。中身も四十四人分ある。……そのうち何割が、いま同じ話を聞かされているか、私には分かりません」
「……」
「三回戦までの二日間、あなたは狙われます。試合ではなく、この部屋で」
「もう一つは」
「お願いです」
久我は、そこで初めて姿勢を正した。
「金松さん。私に、力を貸していただけませんか」
◇
亮は、その申し出を測りかねた。
「……何をすればいいんですか」
「三回戦で、私どもと同じチームになるよう、動いていただきたい」
「そんなことができるんですか」
「できません」
久我は即答した。
「チーム分けは向こうが決めます。ですが、向こうが何を基準に分けているかは、二回まで見れば見当がつきます」
「──教えた側と、教わった側」
「そうです。よくご存じで」
久我は頷いた。
「向こうは、いつも同じことをします。いちばん壊れやすい線で切る。友人同士、師弟、頼りにしている者とされている者。……そこを割れば、あとは勝手に減っていきますから」
◇
「じゃあ、俺とあなたは」
「間違いなく、別のチームにされます」
久我は、あっさり言った。
「いま、この部屋でいちばん壊れやすい線は、あなたと野上さんの間ではありません。二回戦で、そこはもう使われました」
「じゃあ、どこですか」
「あなたと、番号のない方の間です」
亮は、篠塚の方を見た。
壁際で、膝を抱えたまま座っている。
「……篠塚さんは、三回戦に出られるんですか」
「そこが問題です」
久我は言った。
「出られないなら、あの方は競技の外にいる。競技の外にいる人間は、どう扱ってもいいことになります」
◇
「──待ってください」
亮は身を乗り出した。
「どう扱ってもいいって」
「私の言葉ではありません。私のが、そう言っています」
久我は、こめかみを指で軽く叩いた。
「あの方の中は空です。誰も入っていない。……つまり、誰でも入れる」
「……っ」
「番号がなく、記録に載らず、中身が空いている。彼らにとって、あれは空いた椅子です」
亮は、拳を握った。
右手だけが握れた。左手は震えていた。
「なんで、あなたはそれを俺に言うんですか」
「私のが、嫌がっているからです」
◇
久我は、少しだけ笑った。
初めて見せる、皮肉な笑い方だった。
「四十六年、こいつと一緒にいます。だいたい、こいつが嫌がることをすると、私は気分がいいのです」
「……」
「射撃という競技はですね、金松さん」
彼は言った。
「自分の心臓の音が邪魔になるんですよ。引き金を引く瞬間、体の中で動いているものは全部、敵です」
久我は立ち上がった。
「私は四十年近く、自分の中にいるものと戦ってきました。……銃を置いた今も、まあ、同じことです」
◇
その日、亮は何度も部屋を見回した。
四十四人。
誰が、亮を見ているのか分からなかった。誰も、あからさまには見ていない。
だが、時々、視線がぶつかった。
二回戦を戦った十五人ではない。向こう側の二十九人のうちの、何人か。
そのたびに、相手はすぐに目を逸らした。
亮は、篠塚の隣に自分のベッドを移した。理由は言わなかった。篠塚も聞かなかった。
雅人が、反対側に来た。
「なんだよ、川の字か」
「黙って寝ろ」
「腕、動かねえから寝返り打てねえんだよ俺」
◇
消灯した。
亮は、暗い天井を見上げていた。
(グード)
返事はない。
(お前、餌って言われてたぞ)
沈黙。
(腹が立たないのか)
沈黙。
亮は、目を閉じた。
(……起きたら、言い返してやれ)
◇
ざあ、と音がした。
砂が流れる音。
◇
風が、頬を撫でた。
目を開けると、緑色の空があった。
亮は、孤児院の前に立っていた。
ただし、前とは様子が違った。
子供たちが、建物の外に整列させられている。名簿の二十人だ。全員、朝の光の中で、ぼんやりと立たされていた。
その前に、大きな車が停まっていた。
窓のない、灰色の箱のような車だった。
(──回収車)
三日後が、来ていた。
◇
係員が、名簿を読み上げていた。
名前を呼ばれた子が、一人ずつ車に乗せられていく。
誰も泣いていない。誰も暴れていない。
レドがいた。列の三番目で、まっすぐ立っていた。
ネルがいた。いちばん後ろで、自分の足首をずっと見ていた。
グードは、列の中ほどにいた。
両手を体の横に下ろして、車の方を見ている。
亮は、その横に立った。
誰にも見えない体で、誰にも届かない声で。
(……グロウは、どこだ)
◇
名前が、半分ほど読み上げられたときだった。
地面が、揺れた。
いや、揺れたのではない。何かが、猛烈な速さで近づいてくる音だった。
係員が顔を上げる。
孤児院の門を、一台の車が突き破った。
金属が裂ける音がして、門扉が吹き飛んだ。
子供たちが悲鳴を上げる。回収車の運転席から、男が飛び出してきた。
突っ込んできた車の扉が開く。
降りてきたのは、グロウだった。
◇
「乗れェ!!」
グロウが叫んだ。
「全員だ! 全員乗れ!」
子供たちは、動かなかった。
何が起きているのか、誰も理解していなかった。
「聞こえねえのか! 乗れって言ってるんだ!」
「──何をしている!」
係員が叫んだ。
「C地区九十一番! これは公務の妨害だ! あなたの番号は──」
「知るか」
グロウは、係員を殴り倒した。
一発だった。あの右腕が振られて、男は砂の上に転がった。
◇
「グロウ!」
グードが走った。
「乗れ!」
「でも、みんなが──」
「全員だって言っただろうが!」
グロウは、いちばん近くにいた子供を担ぎ上げて、車に放り込んだ。
二人目。三人目。
子供たちが、ようやく動き始めた。走って、押し合って、車に乗り込んでいく。
亮は、その光景を見ていた。
胸が、熱くなっていた。
(──間に合え)
誰にも聞こえないと知りながら、亮は叫んでいた。
(早く、乗れ!)
◇
十四人が乗った。
十五人。十六人。
グロウが、次の一人を担ぎ上げようとしたときだった。
空気が、鳴った。
高い、細い音。
グロウの背中から、赤いものが噴き出した。
「──ぐっ」
彼は、子供を抱えたまま膝をついた。
亮は、音のした方を見た。
孤児院の屋根の上に、人影があった。
黒い制服。長い筒のようなものを構えている。
銃だった。
◇
「グロウ!!」
グードが叫んだ。
グロウは、片膝をついたまま、抱えていた子供を車に押し込んだ。
十七人目だった。
残る三人は、回収車の脇に立ったまま動けずにいた。名前を読み上げられて、既に乗せられていた子たちだった。
そして、荒い息のまま笑った。
「……相変わらず、湿気くせえ真似しやがる」
彼は、屋根の上を見上げていた。
亮も、そちらを見た。
銃を構えた男の隣に、もう一人が立っていた。
背が低く、痩せていて、白い制服を着ている。他の係員とは違う服装だった。
その男が、拡声器のようなものを口元に当てた。
そして、亮にも読める言葉で、こう言った。
「──久しぶりだな、グルー」
グロウの顔が、歪んだ。
「その車には、二十人乗るのか? 残念だが、一人足りない」
男は言った。
「お前の一人目は、もう乗せてやれないぞ。……なあ、カツはどこに行った?」




