第三十四話 久我
目を開けたとき、亮は自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が白い。空が緑ではない。太陽が一つもない。
パイプベッドの軋む音がして、ようやく現実が戻ってきた。
「……っ」
起き上がろうとして、右肩に痛みが走った。それでようやく、完全に戻った。
汗をかいていた。頭のてっぺんから足の先まで、びっしょりと。
亮は、自分の手を見た。
大きい。指が太い。爪の形も、皮の厚さも、二十歳の男の手だった。
◇
(グード)
亮は、心の中で呼んだ。
(起きてるか)
返事はない。
(今の、お前の記憶だよな)
沈黙。
(……ネルって子のこと、覚えてるか)
沈黙。
亮は、天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
起きていないのに、記憶だけが流れてきた。それが何を意味するのか、亮には見当もつかない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
あの少年は、六歳のときに一度、全部を失っている。
◇
照明が戻っていた。
二回戦が終わってから、一日が経ったらしい。三回戦まで、あと二日。
部屋の中は静かだった。
XT・XU組の二十九人は、それぞれのベッドの周りで何かをしている。ストレッチをしている者。壁に向かって座っている者。二人一組で、床に何かを書きながら話し込んでいる者。
誰も騒いでいない。
こちら側では、何人かが固まって座り込んでいた。二回戦のあと、まだ誰も立ち直っていない。
亮は、ベッドを降りた。
◇
「篠塚さん」
壁際に座っている男に、声をかけた。
篠塚は、胸に何も着けないまま、膝を抱えていた。
「おはようございます、でいいんですかね」
「たぶん」
「金松さん、顔色が悪いですよ」
「……変な夢を見ました」
亮は、その隣に腰を下ろした。
言うべきかどうか、迷った。
迷って、言うことにした。この人は、拓海の番号を二度手放した人だ。黙っているのは失礼な気がした。
「篠塚さん。あいつらの星の話です」
「はい」
「あの星では、番号のない人間は、人間として数えられないそうです」
◇
篠塚は、何も言わなかった。
自分の胸のあたりに目を落として、それから、小さく笑った。
「なるほど」
「すみません」
「なんで謝るんですか」
「言わない方がよかったかと」
「いや」
篠塚は首を振った。
「腑に落ちました。……あいつら、俺をどうするか決めてないんじゃなくて、決める必要を感じてないんですね」
亮は、答えられなかった。
「金松さん」
「はい」
「その話、どこで聞いたんですか」
◇
亮は、少し迷ってから答えた。
「俺の中にいるやつの、記憶を見ました」
「……そんなことがあるんですか」
「初めてです」
篠塚は、しばらく黙っていた。
それから、意外なことを聞いた。
「その子、元気でしたか」
亮は、その質問に虚を突かれた。
「……六歳でした」
「六歳」
「孤児院にいて、名簿に載って、三日後に殺される予定でした」
篠塚は、膝を抱えたまま天井を見た。
「……向こうも大変なんですね」
「篠塚さん」
「いや、同情はしませんよ」
彼は言った。
「俺の中にいた奴は、俺の肩を壊して味方を殺させた。……ただ、そういう場所から来たんだって思うと、少しだけ話が分かる気はします」
◇
雅人は、ベッドの上で起きていた。
右腕は固定されたままだ。左手で、部屋の隅にあった水のボトルを開けようとして、失敗している。
「貸せ」
「あ、悪い」
亮は左手でボトルを受け取って、膝で挟んで蓋を回した。二人がかりで一本の水を開けるのに、二十秒かかった。
「情けねえな、俺たち」
「投手が二人揃って、これだ」
「もう投手じゃねえよ」
雅人は、水を飲んでから言った。
「なあ亮。三回戦、どうすんの」
「考えてる」
「投げ手いねえぞ」
「知ってる」
「あっちの二十九人、投げられる奴たくさんいるっぽいけど」
雅人は、部屋の反対側を顎で示した。
「向こうと当たったら、詰みじゃね」
◇
そのときだった。
「──失礼」
声がした。
亮は顔を上げた。
目の前に、あの小柄な男が立っていた。
部屋の奥、いちばん壁際のベッドに座っていた男だ。近くで見ると、思っていたよりさらに小さい。亮より頭一つ以上低い。四十代の半ばだろうか。髪に白いものが混じっている。
この二日、彼は誰にも話しかけなかった。
「少し、お話しできますか」
◇
「……どうも」
亮は立ち上がった。
男は、丁寧に頭を下げた。
「久我と申します。クレー射撃をやっておりました」
「金松です」
「存じております。プロ野球の方ですね」
久我は、雅人にも軽く会釈をした。
「野上さんも。……お怪我のところ、失礼します」
雅人が、面食らった顔で会釈を返した。
亮は、この男の話し方に落ち着かないものを感じていた。
丁寧すぎる。この部屋で、こんな喋り方をする人間は一人もいない。
◇
「二回戦の話を、少しだけ伺いました」
久我は言った。
「そちらのチームは、内部で分割されたそうですね」
「……はい」
「大変だったでしょう」
「そっちは、違ったんですか」
「私どもは、一回戦がXTとXUでした」
久我は、静かに答えた。
「二十九人が残りました。……始まりは、九十九人でしたので」
亮は、その数字を数え直した。
九十九人が、二十九人。
「……こっちより、ひどい」
「ええ。一回戦は、ひどいものでした」
久我は、あっさり言った。
「私は、ほとんど隅で膝を抱えておりました。……ほとんど、です」
「……」
「ですが、二回戦は違います」
久我は言った。
「二回戦では、一人も死んでおりません」
◇
亮の背中が、ぞわりとした。
「どうやって」
「その二十九人を、さらに二つに分けられました。十四名と、十五名です」
久我は言った。
「昨日まで同じ部屋で寝ていた者同士です。……ですので、相手側と話をつけました」
「話を」
「両方とも降参いたしましょう、と」
「──そんなことができるんですか」
「できません」
久我は、少しだけ笑った。
「そもそも、降参という規則がありませんから。申し出は無視されました」
「じゃあ」
「ですので、全員で座りました」
彼は言った。
「十四名と十五名が、白線を挟んで向かい合ったまま、その場に座り込んだのです。……どちらも、一球も投げませんでした」
「……それで」
「向こうは困ったでしょうね。座っている人間を見ていても、勝負になりませんから」
「勝敗は」
「時間切れで、両チーム敗北とされました」
◇
亮は、言葉を失った。
「両チーム敗北って」
「はい。ですから、本来は全員処分されるはずでした」
久我は、あっさりと言った。
「ですが、そうすると三回戦の人員が足りなくなる。……向こうにも都合がありますから」
「じゃあ、あなたたちは」
「賭けに勝ちました」
久我は、亮の目を見た。
「あちらは、私どもを殺す気がないのです。少なくとも、一度に全員は。……あの規則は、そこまで考えて作られていません」
◇
亮は、この男を見直した。
小柄で、痩せていて、この部屋でいちばん弱そうな人間が、二十九人を座らせて、管理側の規則の限界を測っていた。
自分がやってきたことと、同じだ。
いや、違う。
亮は隙間を突いて、その場をしのいだ。この人は、向こうの限界そのものを測りに行った。
「久我さん」
「はい」
「あなた、何者ですか」
「ただの射撃屋です」
久我は、そう言ってから、少し首を傾げた。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「……なんでしょう」
「金松さんは、中の声と、お話しになれますか」
◇
亮の呼吸が、止まった。
この男は、いま、何でもないことのようにそれを聞いた。
「……できます」
「そうですか」
久我は頷いた。
「珍しいですよ。この部屋で、はっきり会話が成立している方は、私の知る限り四人だけです」
「あなたも」
「ええ。私のは、よく喋ります」
久我は、自分のこめかみを指で軽く叩いた。
「うるさいくらいに」
◇
「……何を喋るんですか」
「たいていは、私に指図をします。誰と組め、誰を切れ、と」
「従ってるんですか」
「聞いてはいます。従うかどうかは、別です」
久我は、そこで初めて、少し困ったような顔をした。
「ただ、今朝は少し様子が違いまして」
「……」
「あなたのことを、しきりに言うのです」
亮の指先が、冷たくなった。
「金松さん」
久我は、丁寧に言った。
「あなたの中にいるのは、ずいぶん有名な子らしいですね」




