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第三十三話 一人目のこと

 グードの腕が、振られた。


 亮は、その軌道を目で追った。


 そして、気付いた。


(──外した)


 球は、地面すれすれを滑っていた。だが、ネルの立っている位置から、大きく右へ逸れていく。


 二メートル。いや、三メートル近い。


 この距離で、この子が外すはずがなかった。数十分前まで、走り回る子供の足首を正確に撃ち抜いていた子だ。


 わざとだった。


          ◇


 亮の肩から、力が抜けた。


(──よかった)


 時間制限がどうなるのかは分からない。両者失格になるのかもしれない。


 だが、この子は投げなかった。


 当てなかった。


 その事実だけで、亮は少し息ができた。


 ──そのときだった。


 ネルが、走った。


          ◇


「──っ!!」


 声にならない声が、亮の喉から出た。


 小さな体が、右へ向かって駆けていた。


 外れた球の、進む先へ。


 迷いのない走り方だった。追いつけるかどうかを計算した子供の走り方だった。膝を抱えて座っていた子とは思えない速さで、彼女は砂を蹴った。


「ネル!!」


 グードが叫んだ。


 遅かった。


 滑ってくる球の前に、ネルは自分の足を差し出した。


          ◇


 こつん、と音がした。


 小さな音だった。この広場に響くには、あまりにも小さすぎる音だった。


「退場」


 係員が言った。


 ネルは、砂の上に尻餅をついた。


 自分の足首を見て、それから、白線の向こうのグードを見た。


 そして、笑った。


「あたった」


          ◇


「なんで!!」


 グードが走った。


 白線を、越えかけた。


 係員の手が、その襟首を掴んで引き戻した。子供の体は、簡単に引き倒された。


「なんで走ったの!! 僕、外したのに!!」


 ネルは、座ったまま、首を傾げた。


「外したの?」


「外したよ!」


「そっか」


 彼女は、それだけ言った。


 それから、立ち上がって、線の外へ歩いていった。


 途中で一度だけ振り返って、朝と同じように、小さく手を振った。


          ◇


 亮は、その場に立ち尽くしていた。


 膝が笑っていた。誰にも見えない体で、誰にも聞こえない声で、あらゆる言葉が喉の奥に詰まっていた。


 グードは、外した。


 ネルは、当たりに行った。


 だから、この子は「自分が当てた」とも言えないし、「自分は投げなかった」とも言えない。


 どちらでもある。どちらでもない。


(……こんなもの)


 亮は思った。


(こんなものを、六歳が抱えるのか)


          ◇


「勝者、グード」


 係員が、事務的に言った。


「C地区代表候補として登録する。……推薦者は」


 彼は、手元の紙をめくった。


「C地区九十一番」


「──ここだ」


 グロウが、囲いの外から進み出た。


 地面に倒れていたグードが顔を上げる。その顔は、涙と砂でぐしゃぐしゃになっていた。


「グロウ! 僕、勝った!」


「……ああ」


「番号、もらえる? 名簿から消える?」


 グロウは、答えなかった。


 彼は、係員の方を見ていた。


          ◇


 係員は、紙から目を離さなかった。


 しばらく、指で文字をなぞっていた。


 それから、顔を上げた。


「C地区九十一番」


「そうだ」


「推薦資格──停止中と記録されています」


          ◇


 広場が、静かになった。


 線の外に座らされていた十九人の子供たちが、一斉に顔を上げた。


「……なんだと?」


 グロウの声が、低くなった。


「規定により、資格停止中の登録選手による推薦は無効です」


 係員は、紙をめくった。


「したがって、この選手の出場自体が無効となります」


「待て」


「登録は行われません」


「待てと言っている!」


          ◇


 グロウが、係員の胸倉を掴んだ。


 周囲の大人たちが動いた。他の地区の登録選手たちだ。三人がかりで、グロウの腕が引き剥がされる。


 それでも、グロウは叫んだ。


「この子は勝ったんだぞ! 十九人抜いたんだ! 見てただろうが!」


「勝敗は記録しました」


 係員は、乱れた襟を直しながら答えた。


「ただし、出場が無効である以上、勝敗に効力はありません」


「ふざけるな!」


「ふざけてはいません」


 その口調は、あくまで事務的だった。


「規定です」


          ◇


 亮は、その光景を見ていた。


 胸の中で、二日前の声が反響していた。


 ──規則を定めるのは主催者だ。知っているだろう。人間の競技でも、同じことをする。


 同じだ。


 やり方が同じなのではない。組織が同じなのだ。


 この星の役人と、地球の地下室にいた黒スーツは、同じ手順書を読んでいる。


          ◇


「じゃあ」


 小さな声がした。


 グードだった。


 地面に座り込んだまま、係員を見上げている。


「じゃあ、ネルは」


「は?」


「ネルは、なんで退場したの」


 係員は、その質問の意味が分からなかったらしい。


 紙を確認して、答えた。


「退場者は、名簿のままです」


「僕も?」


「あなたも同様です」


「……じゃあ」


 グードの声が、掠れた。


「なんで、みんな当たったの」


          ◇


 係員は、答えなかった。


 答える必要がないと思っているのが、その顔から分かった。


 グードは、線の外に座っている十九人を見た。


 レドがいた。ネルがいた。名前を呼べる顔が、全部そこにあった。


 みんな、こちらを見ていた。


 誰も、責めていなかった。


 責めていないことが、いちばん悪かった。


          ◇


「──もう一度、確認しろ」


 グロウが言った。


 押さえつけられたまま、声だけが低く続いた。


「俺の資格停止は、いつ付いた」


「記録によれば、四年前です」


「理由は」


「……推薦した選手が、規定違反により失格。推薦者に連帯責任が科されています」


 グロウの動きが、止まった。


 亮は、その横顔を見た。


 この男は、いま初めて、痛いところを突かれた顔をしていた。


          ◇


「あなたは」


 係員が、紙を閉じながら言った。


「第三十九回選手権の優勝者、グルーですね」


「……それがどうした」


「では、ご存じのはずだ」


 係員は、初めてグロウの目を見た。


「あなたが推薦した選手は、これで二人目です」


 グロウの顔から、色が抜けた。


「一人目のことを、お忘れですか」


          ◇


 風が吹いた。


 乾いた砂が、白線の上を流れていく。


 亮は、その男の顔を見ていた。


 背が高く、右腕だけが異様に太く、頬がこけて、目の下に影のある男。ポスターの中で腕を振り抜いていた選手。


 その男が、はっきりと、怯えていた。


「……関係ない」


 グロウは、そう言った。


「あいつのことは、関係ない」


「そうでしょうか」


「関係ないんだ」


 彼は、押さえつけていた大人たちの手を振り払った。


 誰も、もう押さえなかった。


          ◇


 グロウは、地面に座り込んだ子供のところへ歩いていった。


 膝をついて、目の高さを合わせる。


「グード」


「……」


「三日ある」


 子供は、顔を上げなかった。


「三日で、なんとかする」


「……嘘つき」


 グードは、そう言った。


 初めて、この子が大人を責める声を出した。


「知ってたくせに。全部知ってて、僕に投げさせたくせに」


 グロウは、否定しなかった。


          ◇


 亮は、二人のすぐ横に立っていた。


 誰にも見えない体で、誰にも届かない声で。


 だが、そのとき初めて、頭の奥で音がした。


 ──ざあ、と。


 砂が流れるような音。


 視界の端が、白く滲み始めていた。


(……戻るのか)


 亮は、慌てて周囲を見回した。


 まだ知らないことが、いくつもある。


 カツという男のこと。一人目のこと。この子がどうやって地球まで来たのか。


 景色が、薄くなっていく。


 消えかけた視界の中で、グロウが立ち上がるのが見えた。


 そして、誰にともなく、こう言うのが聞こえた。


「……カツ。お前なら、どうした」

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