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第三十話 番号のない子供

「──おい!」


 亮は叫んだ。


 空き地の入口に立つ男に向かって、手を振った。


 男は、こちらを見なかった。


「おい、あんた! 聞こえてるか!」


 聞こえていない。


 亮は空き地の中央まで歩いて、二人の間に立った。グロウと名乗った男と、グードのちょうど真ん中に。


 男の視線は、亮の体を通り抜けて、その向こうの子供に向いていた。


 亮は、そっと手を伸ばした。


 男の腕に触れようとして──指が、沈んだ。


 水に入れたのとも違う。抵抗が、何もなかった。


(……見えてないのか)


 亮は、自分の小さな手を見下ろした。


(俺は、ここにいない)


          ◇


「投げ方って」


 グードが、警戒したまま言った。


 声が高い。六歳か七歳の子供の声だ。地球の空き地で亮に話しかけてきたときと、同じ声だった。


「僕、投げられるよ」


「投げてるだけだ」


 グロウは空き地に入ってきた。


「壁にぶつけて、跳ね返ってきたのを拾ってるだけだろ。それは投げてるって言わない」


「うるさいな」


「腕が細い。肩も使えてない。手首だけで放ってる」


 グロウは、地面に落ちていたボールを拾い上げた。


 赤い、ゴムのボール。バレーボールほどの大きさの、どこにでもある安っぽいやつ。


 亮の背中が、ぞわりとした。


 同じ球だ。二日前、亮が四十人を溶かした球と、まったく同じものが、緑色の空の下にあった。


          ◇


「見てろ」


 グロウは、コンクリートの壁から十メートルほど離れた。


 構える。


 右足を上げる。


 その動作を見た瞬間、亮は思わず一歩前に出ていた。


(──投手だ)


 野球の投球フォームではない。だが、体の使い方が同じだった。下半身から順に力が上がっていき、最後に指先で解放される。十四年、亮が毎日繰り返してきた運動の骨格が、そこにあった。


「ズッ」


 球が、地面すれすれを滑った。


 地面から、五センチ。


 跳ねない。砂を巻き上げながら、まっすぐ加速して、コンクリートの壁の根元に叩きつけられた。


 壁が、鳴った。


 亮は、動けなかった。


(あの球だ)


 甲本拓海に教わって、二日前に自分が投げた球。床を這う、後ろ回転の球。


 それが、地球ではない場所で、自分より先に投げられていた。


          ◇


「……なにそれ」


 グードが、目を丸くしていた。


「跳ねなかった」


「跳ねさせなきゃいいだけだ」


「どうやって」


「教えてやる。だから来い」


 グロウは、ボールを子供に放った。


 グードは、それを両手で受け止めた。受け止めきれずに、尻餅をついた。


「弱いな」


「うるさい」


「腹は減ってるか」


「……減ってる」


「そりゃそうだ」


 グロウは、上着の内側から何かを取り出した。乾いた、平たい塊。食料らしい。


 それを子供に放った。


「食え。腹が減ってる奴に、投げ方は入らねえ」


          ◇


 グードは、警戒しながらそれを齧った。


 齧って、二口目からは、噛まずに飲み込んだ。


 亮は、その光景を見ていた。


 この子供は、地球に来て亮の中に入って、亮を野球選手にした。そしてつい数時間前、亮の肩を直して、力を使い果たして眠っている。


 その少年が、いま、乾いた塊を必死に飲み込んでいる。


「なあ」


 グードが、口をいっぱいにしたまま言った。


「なんで僕なの」


「あ?」


「大人の人が、孤児院に来るの、めずらしい。……僕ら、番号ないから」


          ◇


 その言葉に、亮は顔を上げた。


(番号がない?)


 もちろん、誰も答えなかった。


 だが、グロウが答えた。子供に向かって。


「そうだな。お前らは登録されてない」


「うん」


「この星じゃ、番号がなけりゃ人間じゃない」


 グロウは、乾いた地面に腰を下ろした。


「A地区からZ地区まで、二十六ある。それに、王のいるΩ地区。全部で二十七だ。人間は生まれたときに地区と番号を割り当てられる。俺はC地区の九十一番。それが俺だ」


「グロウって名前は?」


「名前は、番号を持ってる奴が、おまけで持つもんだ」


 グロウは言った。


「お前らは番号を持ってない。だから名前しかない。……この星じゃ、それはいないのと同じだ」


          ◇


 亮の背中が、冷たくなった。


 番号のない人間。


 ──識別番号、確認できず。


 ──番号なき個体が白線を越境。規定により排除する。


 ──登録を、保留のまま継続する。


 あの部屋で、あの天井の声が言っていたことが、いま、緑の空の下で説明されていた。


 地球にデスドッジを持ち込んだ連中は、自分たちの星でやっていることを、そのまま持ってきただけだったのだ。


(……篠塚さん)


 亮は、ここにはいない男のことを考えた。


 あの人は今、番号を持たないまま、あの部屋にいる。


          ◇


「じゃあ、僕はどうやったら番号もらえるの」


 グードが聞いた。


 グロウは、少しの間、答えなかった。


「ひとつだけある」


「なに」


「デスドッジだ」


 子供の顔が、ぱっと明るくなった。


「知ってる! 食堂のテレビでやってるやつ!」


「見たことあるのか」


「たまに。……みんなで見るんだ」


 グードは、両手を広げてみせた。


「すごいんだよ。おっきい会場で、いっぱい人がいて、ボールが当たると、しゅわーって溶けるの」


 亮は、その無邪気な仕草を見ていた。


 胃の底が、冷えていくのが分かった。


          ◇


「地区の代表選手になれば、番号がもらえる」


 グロウは言った。


「勝てば、地区に配給が増える。勝った選手は英雄だ。孤児院上がりでも、番号を刻んでもらえる。……それが唯一の道だ」


「じゃあ、僕なる!」


「簡単に言うな」


「なれるよ! 僕、投げるの好きだもん!」


 グロウは、その子供を見ていた。


 長く、黙って見ていた。


 亮には、その顔が読めなかった。


 喜んでいるようにも見えたし、後悔しているようにも見えた。


「……そうか」


 グロウは、それだけ言った。


          ◇


 そこからの数日を、亮は見ていた。


 時間の流れ方がおかしかった。日が沈んで昇るのが、何度も一瞬で切り替わった。記憶というのはそういうものなのだろうと、亮は思った。


 グロウは、毎日来た。


 同じ時間に来て、乾いた塊を投げてよこして、それから空き地で子供に投げ方を教えた。


 下半身から使え。手首だけで放るな。指の掛かりを覚えろ。後ろ回転をかければ跳ねない。


 亮は、その全部を隣で聞いていた。


 甲本拓海が地下の作戦部屋で言っていたことと、半分は同じだった。残りの半分は、亮が十四年かけて自分で見つけたことだった。


(……同じなんだな)


 星が違っても、空の色が違っても、太陽の数が違っても。


 ボールを投げるという行為の理屈は、同じだった。


          ◇


 やがて、グードの球が変わった。


 跳ねなくなった。


 速くはない。腕が細いままだから、当たり前だ。だが、地面すれすれを滑って、コンクリートの根元まで届くようになった。


「できた! グロウ、できたよ!」


 子供は跳ね回っていた。


 グロウは、腕を組んだまま頷いた。


「上出来だ」


「ねえ、グロウはなんで僕に教えてくれるの」


 グロウの動きが、止まった。


「……なんでだろうな」


「わかんないの?」


「昔、俺にも教えた奴がいた」


 グロウは、空を見上げた。


 緑色の空に、白い太陽と赤い太陽が並んでいた。


「そいつも、番号を持ってなかった」


          ◇


 その日の帰り際だった。


 孤児院の正面に、人だかりができていた。


 子供たちが、壁に貼り出された一枚の紙を見上げている。誰も喋っていなかった。


 グードが走っていく。亮も、その後ろをついていった。


 紙には、名前が並んでいた。


 二十ほど。全部、子供の名前だった。


 いちばん上に、大きな見出しがある。


 亮には、それが読めた。


 ──第四十七次 人口調整対象。


          ◇


 グードは、その紙を見上げていた。


 背が足りなくて、爪先立ちになっている。


 上から順に、指で追っていく。


 そして、下から三番目で、指が止まった。


 亮は、その指の先を見た。


 ──グード。


 子供は、しばらくそこに立っていた。


 それから、振り返った。


 空き地の入口に、グロウが立っている。


 その顔を見て、亮は理解した。


 この男は、知っていたのだ。


 最初から、知っていて、来ていた。

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