第二十九話 残り四十四人
三回戦までの待機区画は、前とは別の部屋だった。
広い。前の部屋の三倍はある。壁沿いに並んだパイプベッドの数を、亮は数える気になれなかった。
そして、先客がいた。
二十九人。
XTとXUの生き残りだ。
◇
扉が開いて、亮たちが入っていっても、彼らは誰も立ち上がらなかった。
目だけがこちらを向いた。
値踏みされている、と亮は思った。前の部屋で亮たちがやっていたのと同じことだ。誰が強くて、誰が弱いか。誰と組むべきで、誰を避けるべきか。
だが、この二十九人には、亮たちにはないものがあった。
整っている。
ゼッケンが、全員きちんと着られていた。丸めて腰に巻いている者も、脱いで枕にしている者もいない。ベッドの間隔も、荷物の置き方も、揃っている。
──誰かが、揃えさせている。
「金松さん」
篠塚が、小声で言った。
「あの人たち、二回戦を勝ってます」
「そうですね」
「たぶん、俺たちより上手にやってます」
◇
部屋の奥、いちばん壁際のベッドに、一人だけ座っている男がいた。
小柄で、痩せている。歳は四十を超えているように見えた。この部屋にいる誰よりも体格が貧相で、この部屋にいる誰よりも落ち着いていた。
その男が、亮を見た。
視線が合った。
男は、軽く会釈をした。
それだけだった。何も言わず、立ち上がりもせず、また自分の膝に目を戻した。
亮の背中に、うっすらと汗が浮いた。
「……あの人、誰ですか」
「知りません」
篠塚も、その男から目を離さなかった。
「でも、あの部屋の空気は、あの人が作ってます」
◇
亮たちは、部屋の反対側に固まって場所を取った。
十四人と、番号のない男が一人。
そして、担架で運び込まれた雅人が一人。
「亮」
ベッドに寝かされた雅人が、天井を見たまま言った。
「俺さ、これからどうすんの」
「……どうもしない」
「投げられねえよ、俺」
彼の右腕は、肘から先が固定されていた。黒スーツが処置していったが、繋がるとは誰も言わなかった。
「俺も投げられない」
亮は、自分の右肩を示した。
「篠塚さんも投げられない。……このチーム、投げ手ゼロだ」
「終わってんな」
「終わってる」
雅人が、少しだけ笑った。
「なあ、亮」
「なんだ」
「俺、生きてていいのかな」
◇
亮は、答えるまでに時間がかかった。
「二十人だ」
「あ?」
「お前が寝てる間に、二十人死んだ。……そのうち十一人は、自分でボールを抱えて死んだ」
「知ってる。聞いた」
「その十一人は、俺たちが次も勝つと思ったから、そうしたんだ」
亮は言った。
「あの人たちが賭けたのは、俺たちだ。……お前がいなくなったら、賭けが無駄になる」
雅人は、しばらく天井を見ていた。
「ずるい言い方すんな」
「ずるいな」
「うん。……でも、わかった」
◇
消灯までに、時間はたっぷりあった。
七十二時間。三日だ。
二回戦のあと、亮は篠塚に一つだけ確認したことがある。
「篠塚さん。あなたの番号、どうなるんでしょう」
「さあ」
篠塚は、自分の胸を見下ろした。何も着ていない。
「保留のままなんでしょうね。俺、三回戦に出られるのかどうかも分からないです」
「出られなかったら」
「そのときはそのときです」
彼は、あっさり言った。
「甲本さんの番号は、ちゃんとあいつが着てます。俺の仕事は終わってるんですよ」
亮は、雅人の胸を見た。
XV7。汗と埃で、白い文字がくすんでいる。
◇
夜が来た。
消灯のあと、亮は自分のベッドで天井を見上げていた。
右肩は、もう痛みすら鈍い。神経が諦めたのだろうと思った。指は動く。だが、腕を上げようとすると、肩の中で何かが空回りする感覚があるだけで、力が伝わらない。
プロ野球選手としての人生は、たぶん終わった。
そのことを、亮は不思議なほど落ち着いて受け止めていた。
二日前なら、絶望していたはずだ。だが今は、そこまで思考が届かない。三日後にまた誰かが死ぬ。それだけで頭がいっぱいだった。
(グード)
亮は、心の中で呼んだ。
返事はなかった。
(グード。起きてるか)
◇
二回戦が終わってから、一度も応答がない。
薄い声すら、返ってこない。
亮は、自分の胸のあたりに手を当ててみた。何かを感じるわけではない。あの少年がどこにいるのか、亮は十四年経っても知らなかった。
(なあ)
亮は、心の中で話しかけ続けた。
(お前、俺の肩を直したよな。あれで力を使い果たしたんだよな)
沈黙。
(頼んだのは俺だ。……悪かったって思ってる)
沈黙。
(でも、謝らないぞ)
亮は、天井に向かって言った。
(あれで雅人が生きてる。だから、俺は謝らない)
◇
そのときだった。
──ざあ、と音がした。
耳ではない。頭の内側から、砂が流れるような音。
視界が、揺れた。
「……っ」
亮は、ベッドの縁を掴んだ。掴んだつもりだった。
だが、指に何も触れなかった。
◇
風が、吹いていた。
亮は立っていた。
屋外だった。
乾いた風が正面から吹きつけてくる。砂の匂いがした。足の裏に、ざらついた地面の感触がある。
顔を上げて、亮は息を呑んだ。
空が、緑色だった。
濃い緑ではない。薄く濁った、青と黄色を混ぜ損ねたような色。その中に、太陽が二つ浮かんでいた。片方は白く、片方はずっと小さくて赤い。
「──なんだ、ここ」
声が出た。
自分の声だった。だが、響き方が違う。
亮は、自分の手を見た。
小さい。
子供の手だった。指が短く、爪が汚れていて、手首が細い。
◇
振り返ると、建物があった。
平屋の、四角い箱のような建物が、いくつも並んでいる。窓は小さく、扉には数字が書かれていた。
いちばん近い建物の壁に、大きく文字が描かれている。
読めるはずのない文字だった。地球の言語ではない。曲線と点で構成された、見たこともない記号の並び。
なのに、亮にはそれが読めた。
──E地区第九孤児院。
「……孤児院」
亮は、その言葉を口に出した。
同時に、頭の中で誰かの声がした。
誰かの声、ではない。
思い出だ。
この場所を知っている。ここで飯を食って、ここで寝て、ここで数を数えられていた。
◇
建物の裏に回った。
狭い空き地があった。地面は同じように乾いていて、隅にコンクリートの壁が立っている。
その壁に向かって、ボールを投げている子供がいた。
一人だった。
小柄で、痩せていて、腕が細い。ぼろぼろの布を体に巻いている。
投げる。跳ね返る。拾う。投げる。
ひたすら、それを繰り返している。
亮は、その光景に見覚えがあった。
自分だ。
一九九三年の夏。愛知県の空き地。誰とも喋らなくなった六歳の亮が、来る日も来る日も、コンクリートの壁にボールをぶつけていた。
同じだった。何もかも同じだった。空の色以外は。
◇
「──おい」
声がした。
亮ではない。もっと低い、大人の声だ。
空き地の入口に、男が立っていた。
背が高い。肩幅が広い。右腕が、他のどの部分よりも太かった。あれは投げる人間の体だ、と亮はすぐに分かった。
男は、壁に向かって投げている子供を見ていた。
子供が振り返る。
その顔を見て、亮は動けなくなった。
知っている顔だった。
一九九三年の空き地で、五センチの箱から出てきた少年。
──グードだ。
◇
男が、口を開いた。
「お前、名前は」
少年は、警戒するように後ずさった。
だが、答えた。
「……グード」
「グードか」
男は頷いた。
それから、自分の胸を指した。そこには、番号のようなものが刻まれた金属の板が下がっている。
「俺はグロウだ」
男は言った。
「C地区の九十一番。……お前に、投げ方を教えに来た」




