第二十八話 名前
「二十五」
「──投げます」
体操の男が、白線の前に出た。
彼は、両手でボールを持ったまま、白線の向こうへ声をかけた。
「そっちの人、誰か! 受けてくれ!」
XY側の十一人が、顔を見合わせた。
やがて、一人が壁際から離れた。
「……いいぜ」
背の低い、がっしりした男だった。
「投げてこい」
◇
緩い山なりの球が、白線を越えた。
男は、それを胸で受け止めた。
「接触を確認。計測を停止する」
誰も死ななかった。
「三十秒の計測を開始する」
今度は、XY側の番だった。
男は、ボールを持ったまま白線に近づいた。
「そっち、誰か受けてくれ」
「──こっちだ!」
XVの一人が手を挙げた。
緩い球が、また白線を越えた。誰かの腕に収まった。
「接触を確認」
◇
それが、六回続いた。
誰も死ななかった。
二十六人が、白線を挟んでボールを渡し合っている。人を殺すために作られた部屋で、ただキャッチボールをしていた。
七回目が終わったとき、XY側の誰かが小さく笑った。
「なんだこれ」
「知らねえよ」
「小学校でやったやつじゃん、これ」
誰かが笑うと、誰かが笑った。
亮は、白線のこちら側でそれを聞いていた。
肩は痛い。指は動かない。だが、この部屋で笑い声が起きたのは、二日間で初めてだった。
◇
「──中止する」
天井の声が、それを断ち切った。
全員の動きが止まった。
黒スーツが、部屋の隅から歩み出てきた。
「両チームともに、勝敗を確定させる意思が認められない」
「規則は守ってる」
亮は言った。
「接触は成立してる。誰も違反してない」
「そのとおりだ」
黒スーツは頷いた。
「だから、規則を追加する」
◇
「これより、計測を十一回行う」
彼は、端末を見ながら言った。
「十一回の計測を終えた時点で勝敗が確定していない場合──両チームの全人員を処分する」
部屋が、凍りついた。
「そんな」
「二十六人、全員かよ」
「待てよ、それはおかしいだろ!」
黒スーツは、顔を上げなかった。
「諸君は死ぬために集められた。何度も言わせるな」
◇
亮は、白線の向こうを見た。
十一人が、そこに立っている。
どちらかが全滅しなければ、二十六人が死ぬ。
こちらが全滅すれば、XV側の十五人と、XV7を着せられた雅人が死ぬ。
向こうが全滅すれば、十一人が死ぬ。
(──計算するな)
亮は、自分に言い聞かせた。
人数を数えた瞬間、答えが出てしまう。少ない方を死なせればいい、という答えが。
二日前、亮はそういう計算をする側にはならないと決めたはずだった。
◇
「──なあ、あんた」
白線の向こうから、声がした。
最初にボールを受けた、背の低い男だった。
「金松、だっけ」
「……はい」
「俺たち、もう分かってるんだ」
彼は、後ろの十人を親指で示した。
「あんたが、俺たちを殺したくねえって思ってんのは分かった。さっきの水泳の兄ちゃんが、俺たちのために死んだのも見てた」
「……」
「でも、無理だろ。あと十回だ」
◇
「だから、こっちで決めた」
男は言った。
「俺たちが、ボールを持つ」
亮の頭が、その意味を理解するのに数秒かかった。
保持側が三十秒以内に接触を伴う投球をしなければ、保持側から一名が排除される。
つまり。
「──やめろ」
亮は叫んだ。
「やめろ! そんなことしたら、あんたら全員──」
「そうだよ」
男は、あっさり言った。
「十一回だろ。俺たち十一人だ。ちょうどいいじゃねえか」
◇
「駄目だ! 他に方法がある!」
「ねえよ」
「探す! まだ時間がある!」
「あんた、さっき鷲尾さんに同じこと言われてたじゃねえか」
男は笑った。
「無いもんは無い、って」
亮は、白線の手前で膝をついた。
右腕は動かない。追いかけることもできない。二日間で三度目だった。誰かが自分で決めて向こう側へ行くのを、この線のこちら側から見ているだけ。
「なんでだ」
亮は言った。
「なんで、あんたたちが」
◇
「うちのチーム、もう指揮する奴もいねえんだよ」
男は言った。
「そっちには、あんたと片腕の兄ちゃんがいる。次の試合も、その次も、たぶんあんたらがなんとかする。……うちには、なんにもねえ」
「そんな理由で」
「そんな理由だよ」
彼は肩をすくめた。
「あとさ。……鷲尾さんが、俺たちのために線を越えたんだ。あの人が守ったもんを、ここで無駄にすんのは、なんか、格好悪いだろ」
◇
「──待ってください」
亮は、立ち上がった。
「名前を、教えてください」
男が、きょとんとした顔をした。
「あ?」
「全員の名前を、教えてください」
亮は言った。
「俺は、自分が殺した人間の顔を覚えておくと決めました。……三十人を超えたところで、できなくなりました」
声が震えた。
「顔は、無理でした。名前なら、覚えられます」
◇
男は、しばらく亮を見ていた。
それから、後ろを振り返った。
「だとよ。……おい、名乗るぞ」
「え、俺も?」
「当たり前だろ」
彼は、亮に向き直った。
「滝本だ。滝本健吾。相撲やってた」
「滝本健吾さん」
「よし」
次の男が、一歩前に出た。
「山室です。山室亘。……競歩でした」
「山室亘さん」
一人ずつ、名乗った。
亮は、一人ずつ、繰り返した。
十一人の名前が、この部屋の中で読み上げられた。誰も、番号では名乗らなかった。
◇
「三十秒の計測を開始する」
天井の声が言った。
滝本が、ボールを両手で抱えた。
投げなかった。
「二十」
彼は、その場に立っていた。
「十」
誰も、何も言わなかった。
「三、二、一」
「保持側から、一名を排除する」
滝本の輪郭が、崩れ始めた。
彼は最後に、亮の方を見た。
「おい、金松」
「はい」
「ちゃんと覚えとけよ」
◇
それが、繰り返された。
二人目。三人目。四人目。
誰も逃げなかった。誰も、順番を譲らなかった。
亮は、白線のこちら側で立ち続けていた。目を逸らさなかった。逸らす権利がないと思った。
XVチームの十五人も、誰も座らなかった。
九人目が消えたとき、篠塚が小さく言った。
「……こんなの、競技じゃない」
「はい」
「甲本さんに、見せなくてよかった」
◇
十一人目。
最後の一人は、山室という若い男だった。競歩をやっていたと言った。
彼はボールを抱えたまま、白線に近づいてきた。
「金松さん」
「……はい」
「ひとつだけ、いいですか」
「なんでしょう」
「俺、次のオリンピック、出るつもりだったんです」
彼は、そう言って笑った。
「たぶん無理でしたけど。でも、出るつもりでした」
「……はい」
「それだけです」
◇
「三、二、一」
「保持側から、一名を排除する」
◇
「XYチーム全滅。XVチームの勝利」
天井の声が、部屋に落ちた。
誰も、歓声を上げなかった。
白線の向こうには、もう誰も立っていなかった。床に十一の染みがあるだけだった。
その奥に、XV7のゼッケンを着せられた男が横たわっている。
◇
「──勝敗確定を確認」
黒スーツが、端末を見た。
「XVチーム、十五名生存。XYチーム、生存者なし」
十五名。
この部屋に立っているのも、十五人だった。
数は合っている。だが、合っているだけだ。
立っている十五人のうち一人は、胸に番号を持っていない。そして勘定に入っているもう一人は、白線の向こうで倒れたままだ。
亮は、その方を見た。
「識別番号XV7、勝者チーム人員として確定」
黒スーツは続けた。
「……なお、識別番号を持たない個体が一名。勝者区画内に存在」
部屋の全員が、篠塚を見た。
篠塚は、胸に何も着けないまま、まっすぐ立っていた。
「──登録を、保留のまま継続する」
黒スーツは、それだけ言って端末を閉じた。
「残存者、四十四名。……登録外の個体を除く」
黒スーツは、篠塚の方を一度も見なかった。
「三回戦は、七十二時間後だ」
◇
白線が、消えた。
床に埋め込まれた光が落ちただけだった。だが、それが消えた瞬間、亮は走り出していた。
二日間、越えられなかった線を、一歩で越えた。
「雅人!」
床に膝をついて、その体を抱え起こす。右腕は使えない。左腕だけで、必死に。
「雅人、起きろ! おい!」
男の瞼が、震えた。
「……ん」
「雅人!」
「……うっせえな」
雅人は、薄目を開けた。
「なんだよ、朝練かよ」
◇
亮の目から、勝手に何かが落ちた。
「馬鹿。……お前、馬鹿」
「なんだよ、泣くなよ気持ちわりい」
雅人は、そう言ってから、自分の右腕を見た。
肘から先が、力なく垂れている。
彼の顔から、笑いが消えた。
「……あー」
「雅人」
「そっか。夢じゃねえんだ」
彼は、しばらく自分の腕を見ていた。
それから、亮の胸のゼッケンを見て、次に自分の胸を見た。
XV7。
◇
「なあ、亮」
「なんだ」
「これ、誰の番号だ」
亮は、答えられなかった。
少し離れたところに、番号を持たない男が立っていた。
雅人は、その男を見た。それから、床に散らばった十一の染みを見た。
部屋の隅で、黒スーツが退室の準備をしている。
「……何人だ」
雅人は言った。
「俺が寝てる間に、何人死んだ」
亮は、口を開いた。
声が出るまでに、しばらくかかった。
「二十人だ」
「……そうか」
雅人は、動かない右腕を、左手で膝の上に置いた。
「名前、覚えてるか」
「十一人だけ」
亮は言った。
「あとは、覚えてない」
雅人は頷いた。
「じゃあ、その十一人ぶんは、俺にも教えろよ」
◇
三回戦まで、七十二時間。
残る者、四十四名。
ほかに、番号を持たない男が一人。
恩赦は、一名。
第二部「淘汰」 完




