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第二十七話 俺の判断だ

「投げさせろって、どういう意味だ」


 亮は叫んだ。


 白線の向こうで、鷲尾は自分の右腕を左手で押さえつけている。上げられた肘が、耳の横で震えていた。


「そのまんまの意味だ」


 鷲尾は、歯の間から声を出した。


「三十秒の、あれだ。……俺がまともに一球投げりゃ、誰も死なねえんだろ」


「そうだ」


「なら投げる。……お前んとこの誰かに、受けてもらう」


「それはこっちが一人死ぬってことだ」


「違う」


 鷲尾は言った。


「捕らせろ。当てねえよ」


          ◇


「捕れる球を投げる。緩いやつだ。……お前らがさっきやってたのと同じだろ」


 亮は、息を呑んだ。


 鷲尾は、亮の手をずっと見ていたのだ。緩い球で真柴に接触を成立させたときから。


「篠塚さん」


「──誰が受けます」


 篠塚が振り返った。


「俺がやります」


 声を上げたのは、体操をやっていたという小柄な男だった。


「あんた、受けたことないだろ」


「捕るだけなら、まだ動きます」


          ◇


「──十五」


 カウントが進んでいる。


「鷲尾さん、早く」


「うるせえ、押さえてんだよ!」


 鷲尾の左腕の筋が浮いていた。


 自分の右腕と、格闘している。


 その光景を、亮は初めてまともに見た。人が自分の体と喧嘩をしている。腕を上げようとする力と、下ろそうとする力が、同じ一つの体の中でぶつかっている。


「十」


「くそ、が──!」


 鷲尾の右腕が、勢いよく下りた。


 振り抜かれたのではない。押さえつけられて、落ちた。


 その手からボールが離れて、ふわりと山なりに飛んだ。


 白線を越えて、その男の胸へ。


 男が、両手で包み込んだ。


「──接触を確認。計測を停止する」


          ◇


「……はぁ、はぁ」


 鷲尾が、膝に手をついた。


 肩が大きく上下している。たった一球投げただけで、フルラウンド戦ったあとのような息の切れ方だった。


「鷲尾さん」


「金松」


 鷲尾は顔を上げた。


 まだ、焦点は合っている。


「時間がねえ。手短に言う」


「はい」


「こいつは、俺が死んだら他の奴に移る。……そうだよな?」


 亮は、答えられなかった。


「二日前、そっちのチームで同じことがあったって聞いた。倒れた奴に触った男が、次にやられたって」


「……はい」


「じゃあ、答えは簡単だ」


 鷲尾は、口の端を吊り上げた。


「誰にも触れねえところで、死ねばいい」


          ◇


 亮の背中が、冷えた。


「待ってくれ」


「待たねえよ」


「他に方法がある」


「あるなら言えよ」


 亮は、口を開いた。


 何も出てこなかった。


 この二日で、亮は三度、規則の隙間を突いた。ゼッケンを投げ、バウンドを使い、緩い球で接触を成立させた。


 だが、今度は隙間がなかった。


 寄生者が生きている限り、次の椅子を探す。椅子を与えなければ、その場で死ぬ。それだけの話だった。


「な?」


 鷲尾は言った。


「お前、頭いいけどよ。無いもんは無いんだよ」


          ◇


「──おい、お前ら」


 鷲尾は、後ろを振り返った。


 XYチームの十一人が、遠巻きに彼を見ている。


「離れろ。俺から十メートル以上だ」


「わ、鷲尾さん」


「壁まで下がれ。誰も近づくな」


 彼は、両手を広げてみせた。


「俺に触ったら、次はお前だぞ」


 十一人が、一斉に後ずさった。


 誰も、彼を止めなかった。


 止められる人間は、この部屋に一人もいなかった。


          ◇


「金松」


 鷲尾は、白線の方へ向き直った。


「一昨日、俺はあんたのとこに行かなかった」


「……はい」


「他人の号令で半歩ずれるのが嫌だって言った。あれ、半分は本当で、半分は嘘だ」


 彼は、ゆっくりと歩き出した。


「本当は、怖かった。人の言うこと聞いて、それで死んだら、誰のせいにもできねえだろ。……自分で決めたことにしとけば、少なくとも納得はできる」


「鷲尾さん」


「だから、これも自分で決める」


 彼は歩きながら、亮を見た。


「文句ねえよな」


          ◇


「──やめろ」


 亮は言った。


「やめろ、鷲尾さん」


「あ?」


「一昨日、俺の目の前で同じことをした人がいた」


 亮の声が、震えた。


「その人は、白線を越えて、撃たれて、溶けた。……俺は止められなかった」


「……ふうん」


「だから、やめてくれ」


 鷲尾は、少しだけ足を止めた。


「そいつ、後悔してたか」


「……いえ」


「じゃあ、いいだろ」


          ◇


 鷲尾の足が、また動いた。


 白線まで、五メートル。


 彼の右腕が、痙攣したように跳ねた。中のものが、暴れ始めている。


「──ぐ、っ」


 鷲尾の膝が折れかけた。


 彼は、それを左手で床について支えた。


「うるせえよ」


 自分の体に向かって、彼は言った。


「俺の足だ」


 立ち上がる。


 三メートル。


「俺の腕だ」


 二メートル。


「俺の──」


          ◇


「鷲尾さん!!」


 亮は叫んだ。


 白線のこちら側で、亮も膝をついていた。追いかけられない。越えられない。二日前とまったく同じだった。


 鷲尾は、振り返らなかった。


 最後の一歩を踏み出しながら、片手を軽く上げた。


 開会式のときに黒スーツを睨みつけた、あの男の背中だった。


「──俺の判断だ」


 靴が、白い線を越えた。


          ◇


「識別番号XY16、白線を越境」


 天井の声が言った。


「規定により、排除」


 乾いた音が、四つ重なった。


 鷲尾の体が、前のめりに倒れた。


 半径十メートルに、誰もいなかった。


 輪郭が、背中から崩れていく。彼は、床に手をついたまま、一度だけ首を動かした。


 XYチームの十一人が、壁際に固まっている。


 誰も、近づかなかった。


 近づけなかったのではない。近づかないでくれと言われたから、そのとおりにした。


 鷲尾は、それを確かめてから、静かに崩れた。


          ◇


(グード)


 亮は、心の中で呼んだ。


(……起きてる)


(あいつは)


(消えたよ)


 グードの声は、薄いままだった。


(宿主が溶けるときに、一緒に。……触れる相手が誰もいなかったから)


(そうか)


(亮くん)


(なんだ)


(あの人、強かったね)


 亮は、床に手をついたまま、目を閉じた。


(ああ)


          ◇


 部屋が、静まり返っていた。


 XVチーム、十五人。そのうち一人は、胸に番号を持っていない。


 XYチーム、十一人。壁際に固まったまま、誰も動かない。


 そして白線の向こう、部屋のいちばん奥に、XV7のゼッケンを着せられた男が横たわっている。


 寄生者はもういない。乗っ取る者も、外して味方を殺す者も、この部屋にはいなくなった。


 亮は、ゆっくりと立ち上がった。


 右腕は動かない。グードは眠っている。だが、脅威は消えた。


 ──終わった。


 そう思いかけた。


          ◇


「三十秒の計測を開始する」


 天井の声が、部屋に落ちた。


 亮の思考が、止まった。


「保持側から、接触を伴う投球がない場合、保持側から一名を排除する」


 その男の手の中に、赤いゴムボールがあった。


 鷲尾が最後に投げて、彼が受け取った、あの球が。


「──待て」


 亮は言った。


「もう、終わりだろ。あいつはいなくなった」


「勝敗は確定していない」


 黒スーツが、部屋の隅から答えた。


「二十七」


 亮は、白線の向こうを見た。


 壁際に、十一人が立っている。


 誰も武器を持っていない。誰も乗っ取られていない。昨日まで同じ部屋で寝ていた、ただの人間が十一人。


 その全員が、亮を見ていた。

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