第二十五話 真柴
赤い球が、白い布を纏って飛んでいた。
XY側の男たちが、その軌道を目で追っている。
落下点は、部屋の奥。壁際に倒れた雅人から、三メートルほど手前。
二人が走っていた。
真柴と、鷲尾。
距離は、鷲尾の方が近かった。
◇
(──間に合わない)
亮は、白線のこちら側で膝をついていた。
投げた瞬間に、右肩の奥で何かが千切れた。いま、腕は上げるどころか、指を握ることもできない。
それでも目だけは、あの一点から離せなかった。
鷲尾が両手を伸ばす。
落ちてくるボールを、上から包み込むように。
真柴は、まだ二歩後ろにいた。
(──取られる)
◇
だが。
真柴は、ボールを見ていなかった。
彼の目は、その表面に巻きついた白い布だけを見ていた。
鷲尾の手が、ボールに触れる。
──その瞬間、ゴムの表面を滑って、布の端がほどけた。
汗を吸って重くなったゼッケンが、ボールから離れて、ふわりと落ちる。
真柴が、床に滑り込んだ。
伸ばした指先が、白い布を掴んだ。
◇
「──取った!」
真柴が叫んだ。
「取ったぞ!」
鷲尾が、彼を見下ろした。
その手には、赤いゴムボールがある。
「……ああ、そういうことか」
鷲尾は、心底くだらなそうに言った。
「君は、球じゃなくて布を取りにきたのか」
「悪いな」
真柴は、立ち上がりながら言った。
「俺、ラグビーやってたんだよ。……こぼれ球を拾うのだけは、得意なんだ」
彼は、白い布を握りしめたまま、雅人の方へ走った。
◇
「真柴さん!」
亮は叫んだ。
「頭からです! 頭から通してください!」
「わ、分かってる!」
真柴は、雅人の上体を抱え起こした。
人間の体は重い。まして気を失った人間はもっと重い。彼は片膝を立てて、雅人の背中を自分の腿に乗せた。
XY44と書かれたゼッケンを、慌ただしく脱がせる。
「くそ、腕が引っかかる……!」
「落ち着いて! 右腕は動かないので、そっちを先に抜いてください!」
亮は、白線の手前で叫び続けた。
自分は、そこから一歩も動けない。
◇
真柴が、XV7を雅人の頭に通した。
汗で重くなった布が、意識のない男の顔を滑っていく。
右腕を通し、左腕を通し、裾を引き下ろす。
──XV7。
「──識別番号XV7の位置を再確認」
天井の声が言った。
部屋にいる全員が、動きを止めた。
「XVチーム人員として登録。位置情報の異常を記録」
亮は、床に手をついた。
息が、勝手に漏れた。
(──通った)
◇
「──識別番号を持たない個体を、一名確認」
天井の声が、続けた。
亮は顔を上げた。
篠塚が、ゼッケンを脱いだまま、白線の手前に立っている。
胸には、何もない。
「処理を、保留する」
天井の声は、それだけ言った。
「……保留?」
誰かが呟いた。
篠塚は、自分の胸のあたりを見下ろした。
「そうですか」
彼は、亮の方を向いて、少しだけ肩をすくめた。
「殺すか生かすか決めてないんですね、あいつら。……甲本さんのときは、越えたから殺したんだ」
「篠塚さん」
「大丈夫です。俺は動きません」
◇
「──さて」
鷲尾が、ボールを指で回した。
その顔から、さっきまでの余裕がわずかに削れていた。
「面白い手だったよ、金松くん。二日前の男より、少し賢い」
「どけ」
「どかないよ」
鷲尾は、真柴の方を向いた。
「そこの君」
真柴が、雅人を床に横たえたところだった。
「はい?」
「余計なことをしたね」
鷲尾の腕が、上がった。
肘が、耳の横まで。
「真柴さん!!」
亮は叫んだ。
◇
距離は、五メートルもなかった。
真柴は、逃げようとしなかった。
いや、逃げられなかったのだろう。膝立ちの姿勢から立ち上がるには、あまりにも時間が足りなかった。
「ヒュッ」
音は、ほとんどしなかった。
ボールは、真柴の胸に、まっすぐ吸い込まれた。
「XY29、アウト」
天井の声が言った。
◇
真柴は、自分の胸を見た。
それから、亮の方を見た。
白線を挟んで、十メートル以上離れている。
彼の口が動いた。声は、届かなかった。
だが亮には、何と言ったのかが分かった。
──やったぜ。
輪郭が、崩れていく。胸から、肩へ、首へ。
彼の右手は、最後まで雅人の肩に置かれたままだった。
◇
「──真柴ぁ!!」
亮の叫びは、部屋の壁に吸い込まれた。
床に広がったものは、湯気ひとつ立てなかった。
二日前、亮は自分が殺した人間の顔を全部覚えておくと決めた。三十人を超えたあたりで、それができなくなった。
名前を聞いたのは、この男が初めてだった。
真柴。
ラグビーをやっていた。こぼれ球を拾うのが得意だった。それだけしか知らない。
それだけしか、知る時間がなかった。
◇
「──金松さん」
篠塚が、亮の肩に手を置いた。
「立ってください」
「……」
「立ってください、金松さん」
亮は、顔を上げた。
篠塚の顔も、蒼白だった。だが、その目は白線の向こうから離れていない。
「終わってません」
「……はい」
「あんたが崩れたら、この十七人が全部持っていかれます」
亮は、震える膝で立ち上がった。
右腕は、体の横で垂れ下がったままだった。
◇
「よかったね、金松くん」
鷲尾が言った。
「これで、その子は死なない。君は心置きなく勝てる」
亮は答えなかった。
「……勝てるかな?」
鷲尾は、跳ね返ってきたボールを受け取った。
「君の肩は終わった。中のお友達は寝てる。そこの片腕の彼も投げられない。……君のチームに、球を投げられる人間は、もう一人もいないよね」
亮は、白線の向こうを睨んだ。
「僕は、外し続ける」
鷲尾は言った。
「そのたびに、こっちから一人ずつ減る。あと十二人いる。十二回、君は目の前で人が溶けるのを見る」
「……」
「そして僕のチームが僕一人になったら、そのときは、君たちを一人ずつ当てていく。君のチームは、僕に球を投げ返せない」
鷲尾は、笑った。
「詰みだよ」
◇
亮は、動かなかった。
右肩の痛みで、視界が明滅している。
だが、頭のどこかは、まだ冷えていた。
(──詰みじゃない)
二日前、甲本拓海はこう言った。
このゲームは、当てるゲームじゃない。ボールを持ち続けるゲームだ。
あいつがボールを持っている限り、こちらは死なない。あいつは自分のチームを削り続ける。だが、それはあいつがボールを持ったままだからだ。
こちらがボールを取れば、状況は逆転する。
問題は、こちらに投げられる人間がいないこと。
(──投げなくていい)
亮は、顔を上げた。
「篠塚さん」
「はい」
「捕るだけなら、何人いますか」




