第二十四話 番号を渡す
「五人目、いくよ」
「待ってくれ」
亮は言った。
「まだ何かあるの?」
「考える時間をくれ」
「あげない」
鷲尾が腕を上げた。
亮の頭の中で、二日前の声が響いた。
──金松。最初にゼッケンを配られたとき、黒スーツが何て言ったか覚えてるか。
──番号を管理してるってことは、番号でしか判別できないってことだ。
◇
「──篠塚さん」
亮は、白線から目を離さずに言った。
「ボールは、白線を越えられますよね」
「え?」
「人は越えられない。でも、ボールは越えられる」
篠塚の呼吸が、止まった。
「……金松さん」
「あいつに、XVの番号を着せればいい」
「まさか」
「二日前に、甲本さんがやったのと同じことです」
亮は、自分の胸に手をかけた。
「ただし、今度は投げて渡す」
◇
「やめてください」
篠塚が、亮の手首を掴んだ。
「あんたが番号を捨てたら、どうなるか分からない」
「分かってます」
「分かってない」
篠塚の声が、初めて荒くなった。
「甲本さんが番号を脱いだとき、あいつら何て言いました? 識別番号、確認できず、ですよ。……この部屋は、番号のない人間をどう扱うか決めてないんです。決めてないものは、たいてい消されます」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
「俺の番号を使ってください」
◇
亮は、篠塚を見た。
その胸には、XV7と書かれている。
「駄目です」
「なんでですか」
「それは甲本さんの番号だ」
「そうです」
篠塚は、はっきりと言った。
「だから、俺が使い切るのはおかしいでしょう」
亮は、言葉を失った。
「あの人は、これを俺に着せて死にました。俺が助かるためじゃなくて、助けるために脱いだんです。……その番号を、俺が抱えて最後まで生き残るなんて、いちばんあの人らしくない」
篠塚は、吊った左腕でぎこちなくゼッケンの裾を掴んだ。
「もう一回、誰かに渡した方がいい」
◇
「篠塚さん、あなたが消える」
「かもしれません」
「かもしれない、じゃない」
「甲本さんも、分からないままやりましたよ」
篠塚は、少しだけ笑った。
「あの人、確認してから飛び込むような人じゃなかった」
亮は、拳を握った。
止めるべきだと思った。この人はもう十分に払っている。左肩を壊して、体を奪われて、味方を殺させられて、そのうえで一日かけて十八人に戦い方を教えた。
だが。
(──止める権利が、俺にあるか)
二日前、亮は敵に向かってこう言った。
そいつが出ていくかどうかは、そいつが決める。お前が決めることじゃない。
一時間前、グードに向かってこう言った。
決めるのはお前だ。
「……分かりました」
亮は言った。
「お願いします」
◇
「十二」
カウントは進んでいる。
篠塚が、片手でゼッケンを頭から引き抜いた。左腕を吊ったままなので、時間がかかった。亮が手伝った。
XV7。
汗を吸って重くなった布が、亮の手に渡る。
「金松さん」
「はい」
「あんたの球じゃないと届きません」
篠塚は、白線の向こうを指した。
「野上さんが倒れてるのは、向こうの、いちばん奥です」
亮は、その距離を測った。
白線から十メートル以上。壁際。
肩は終わっている。腕は上がらない。下から放る緩い球では、絶対に届かない。
「──九」
◇
(グード)
亮は、心の中で呼んだ。
返事がなかった。
(グード。起きろ)
(……ん)
薄い声だった。
(もう一回、頼めるか)
(……できない)
その答えに、亮は目を閉じた。
(ごめん、亮くん。……もう、力がないんだ)
(分かった。寝てろ)
(ごめんね)
(お前は何も悪くない)
亮は目を開けた。
右肩に触れる。熱い。腕は上がらない。
それでも、投げるしかなかった。
◇
「──そこの人!」
亮は、白線の向こうへ叫んだ。
XY側の男たちが、びくりと振り返る。
亮が呼んだのは、さっきボールを捕った男だった。名前を知らない。ラグビーだったか体操だったか、それも思い出せない。
その男が、自分を指さした。
「お、俺?」
「あなたです」
「な、なんだよ」
「名前を、教えてください」
男は、面食らった顔をした。
この状況で聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「……真柴。真柴です」
「真柴さん」
亮は言った。
「頼みがあります」
◇
「これから、そっちにゼッケンを投げます」
「ゼッケン?」
「XV7と書いてあります。……それを、そこで倒れてる野上に着せてください」
真柴の顔が、みるみる強張った。
「な、なんでそんなこと」
「そうすれば、あいつは死にません」
真柴の目が、床に倒れた雅人に向いた。
それから、自分の胸に。
XY29。
「……俺は?」
「──七」
亮は、答えなかった。
答えられなかった。
真柴は、しばらく自分の番号を見ていた。
◇
「あんたさ」
真柴が言った。
「さっき、俺に緩い球投げただろ」
「はい」
「あれ、なんで」
「殺したくなかったからです」
「……そっか」
真柴は、鼻の頭を掻いた。
「俺、あんたのこと、化け物だと思ってたんだよ。一昨日、四十人溶かすとこ見たから」
「……」
「悪かったな」
彼は、雅人の方へ歩き出した。
「投げてくれよ。受け取る」
◇
「──ほう」
鷲尾の声が、割り込んだ。
「なるほどね。番号か」
亮の背中が冷えた。
「二日前の男と同じことを考えるんだね、君たちは」
鷲尾は、ボールを持ったまま真柴の前に立ちはだかった。
「悪いけど、それは困る」
「どけ」
「僕は君に勝ってほしいんだよ、金松くん」
鷲尾は言った。
「君が勝って、そこの子が死ねば、君は折れる。折れた君は、僕にとって最高の椅子だ。……その中にいるお友達も、いま、ずいぶん弱ってるみたいだしね」
◇
「五」
亮は、ゼッケンを丸めた。
汗を吸った布を、ボールの表面に巻きつける。ゴムの摩擦で、なんとか留まった。
握る。
重い。ボールだけより、はるかに重い。
この重さのものを、十メートル以上先へ、壊れた肩で投げる。
「四」
亮は、右足を上げた。
肩の奥で、何かが軋んだ。
(──甲子園の九回)
二死満塁。百三十二球目。
あのとき、亮の肩は既に限界を超えていた。それでも投げた。投げられたのは、才能ではなく、そこまでの十四年が体に残っていたからだ。
「三」
あれは宇宙人が投げたのか。
違うだろ。
投げたのはお前だろ、金松。
◇
腕が、しなった。
肩の奥で、何かが千切れた。
今度は、はっきりと音がした。
だが亮の指は、最後まで布を離さなかった。
ボールが、白線を越える。
高く、遠く、部屋の奥へ。
白い布を纏った赤い球が、照明のない天井の下を飛んでいく。
XY側の男たちが、一斉に空を見上げた。
真柴が走った。
そして。
鷲尾も、走った。




