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第二十三話 百三十二球目

 鷲尾の肘が、耳の横まで上がっていた。


 XYチームの男たちが、一斉に後ずさった。


「な、なんだよ、鷲尾さん」


「おい、どうしたんだ」


 誰も、彼に近づかなかった。


 二日間、この部屋でいちばん強い男だった。誰もが、その保護を受けるか、その脅威を避けるかしていた。その男が、いま、彼らの知らない立ち方をしている。


「──ああ」


 鷲尾の口が動いた。


 声の高さは同じだった。だが、喋り方が違った。


「悪くないね、この体」


          ◇


 亮は、白線のこちら側で立ち上がった。


 右肩に、燃えるような痛みが戻っている。グードが流し込んだ熱は、もう完全に引いていた。


「……お前が、雅人の中にいた奴か」


「そうだよ」


 鷲尾は──鷲尾の体をした何かは──軽く肩を回した。


「いやあ、あの子はよかった。素直でね。調子がいいって言ってやれば、いくらでも投げてくれた」


「黙れ」


「褒めてるんだよ」


 それは、笑った。


「腕が二本とも壊れるまで気付かないってのは、才能だ」


          ◇


「金松さん」


 篠塚が、亮の横に来た。


「あれ、篠塚さんのときと同じですか」


「同じです」


 篠塚の声は硬かった。


「……ただ、俺のときより、喋りますね」


「三十秒の計測を開始する」


 天井の声が言った。


「保持側から、接触を伴う投球がない場合、保持側から一名を排除する」


 亮の手の中に、ボールがある。


「二十九」


「金松さん、投げられますか」


「……」


 亮は、右腕を上げようとした。


 肩より上に、上がらなかった。


          ◇


(グード)


 亮は心の中で呼んだ。


(……うん)


 返事が、遠かった。


 声が薄い。輪郭が滲んでいるような話し方だった。


(お前、大丈夫か)


(へーき)


(嘘つけ)


(……ちょっと、眠いだけ)


 亮の胸が、締めつけられた。


(もう何もするな。寝てろ)


(うん)


(グード)


(なに)


(さっきの一球、ありがとうな)


(……うん)


          ◇


「二十」


 亮は、ボールを握り直した。


 右腕は上がらない。だが、下から放る球なら投げられる。


 あの、床を這う球。腰より下のリリース。


 問題は、当てなければならないことだ。


「篠塚さん」


「はい」


「あいつの足元を狙います」


「──やめてください」


 篠塚が、即座に言った。


「あれは捕ります。俺と同じ状態なら、あの球を掬い上げられる」


「知ってます」


「捕られたら、こっちが投げられる番はもう来ないかもしれません」


「知ってます」


 亮は言った。


「だから、当てません」


          ◇


「十五」


 亮は、白線に向かって左足を踏み出した。


 狙いは、鷲尾ではなかった。


 その右隣に立っている、名前も知らない男。ラグビー選手だと言っていたか、体操だったか。もう思い出せない。


 XYチームの、いちばん端の男。


 亮は、その男の膝の高さへ向かって、山なりの球を放った。


 速くない。


 誰でも捕れる、緩い球だった。


 男は、反射的に両手を出した。


 ──そして、捕った。


「十二」


「接触を確認。計測を停止する」


          ◇


「……なんだ?」


 XY側がざわめいた。


「今の、なんだよ。ただのパスじゃねえか」


 その男は、両手でボールを抱えたまま、呆然と立っていた。


 自分が死ななかったことに、まだ気付いていない顔だった。


「金松さん」


 篠塚が、掠れた声で言った。


「あんた、まさか」


「接触すればいい」


 亮は答えた。


「捕らせれば、接触だ。……当てる必要はない」


 白線の向こうで、鷲尾がゆっくりと振り向いた。


「へえ」


          ◇


「面白いことをするね」


 鷲尾は、ボールを抱えた男の手から、それを取り上げた。


 男は、抵抗しなかった。


「でも、意味がないよ」


「あるさ」


 亮は言った。


「今の三十秒で、誰も死ななかった」


「そうやって何回稼ぐつもりだ」


「稼げるだけ」


「なるほどね」


 鷲尾は、ボールを指で回した。


「じゃあ、こっちも稼ごうか」


          ◇


 その言葉に、亮は身構えた。


「──ただし、稼ぐ方向が逆だ」


 鷲尾が振りかぶった。


 肘が耳の横。ありえない角度。


「右ィッ!」


 篠塚の号令。


 十八人が半歩ずれる。


 球は通路を抜けて、壁を叩いた。


 誰にも当たらない。


「XVチーム、接触なし」


 天井の声が言った。


「──え?」


 亮は、顔を上げた。


「投球側の計測を再開する」


「待て」


 亮は言った。


「今の、当たらなかったんだぞ。あいつが投球を成立させられなかったんだ」


「そのとおりだ」


 黒スーツが、部屋の隅から答えた。


「投球側は、三十秒以内に接触を成立させなければならない。……それができない場合、投球側から一名を排除する」


          ◇


 亮の背中に、氷が走った。


(──あいつ、わざと外した)


 鷲尾が、こちらを見て笑っていた。


「そういうことだよ、金松くん」


「なんでだ」


「僕が外せば、僕の側から一人減る」


 鷲尾は、跳ね返ってきたボールを受け取った。


「僕はこのチームの人間なんか、どうでもいい。……でもね、君は違うだろ」


 亮は、言葉を失った。


「君は今、僕のチームの人間を助けようとして、緩い球を投げた。名前も知らない男を、わざわざ生かした」


 鷲尾は、ボールを軽く放り上げた。


「じゃあ、僕がその男を殺したら、君はどうする?」


          ◇


 二投目も、鷲尾は外した。


 三投目も。


 そのたびに天井の声が、XY側から一人を排除した。


 誰も、ボールに触れられなかった。誰も、当たっていない。


 ただ、投げた側が外したという理由だけで、彼の後ろに立っていた男たちが順番に溶けていった。


「やめろ!」


 亮は叫んだ。


「やめろって言ってるだろ!」


「じゃあ、当てさせてよ」


 鷲尾は言った。


「君のチームの誰かが、僕の球を受けてくれれば、それで終わる。……簡単だろ?」


 XVチームの十八人が、後ずさった。


 白線の向こうで、四人目が溶けた。


          ◇


「──金松さん」


 篠塚が、低く言った。


「あれは、こっちを崩しに来てます」


「分かってます」


「向こうを減らして、こっちに罪悪感を積ませて、誰かが前に出るのを待ってる。……前に出た人が死んだら、次はもっと出やすくなる」


 篠塚の顔は蒼白だった。


「甲本さんが、いちばん警戒してた崩れ方です」


 亮は、拳を握った。


 右肩が痛い。グードは眠っている。ボールは向こうにある。


 白線の向こうでは、味方でも敵でもない男たちが、理由もなく減り続けている。


          ◇


「五人目、いくよ」


 鷲尾が腕を上げた。


「──待て」


 亮は言った。


「なに?」


「ひとつ聞かせろ」


 亮は、黒スーツの方を見た。


「この試合で勝敗が確定したら、負けた側の生き残りはどうなる」


 黒スーツは、即答した。


「処分する」


「……全員か」


「全員だ」


 亮は、白線の向こうを見た。


 床に倒れたまま動かない男がいる。


 XY44。


 寄生者が抜けて、扉が閉じて、ただの人間に戻って、いま気を失っているだけの男が。


          ◇


「ああ、そうか」


 鷲尾が、心底楽しそうに言った。


「そこの子、まだ生きてるんだったね」


 亮は答えなかった。


「じゃあ、君は勝てないな」


 鷲尾は、ボールを肩の高さに上げた。


「勝てば、その子は死ぬ。負ければ、君の後ろの十七人が死ぬ。……二日前も、誰かが同じ顔をしてたよ」


 その口が、笑いの形に歪んだ。


「なあ、金松くん」


「……なんだ」


「百三十二球目、だっけ」


 亮の呼吸が、止まった。


「インコース低め。あの子、あれをずっと覚えてたよ。頭の中でね、何百回も繰り返して見てた。……僕も、一緒に見てた」


 鷲尾は、首を傾げた。


「君の球、そんなに良かったのかな」

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