第二十二話 決めるのはお前だ
(グード)
亮は、心の中で呼んだ。
(俺の肩、直せるか)
返事は、すぐには来なかった。
(……直せる)
(どのくらいで)
(完全には無理。一球だけなら、たぶん)
(一球でいい)
白線の向こうで、雅人が腕を持ち上げていく。折れた肘のまま。
(グード。頼みがある)
◇
(一昨日、俺は断った)
亮は言った。
(お前が減るなら要らないって言った。……あれは撤回しない。俺が投げるために、お前を削らせるつもりはない)
(じゃあ)
(今から頼むのは、投げるためじゃない)
亮は、白線の向こうを見た。
(あいつの腕を止めるためだ)
沈黙があった。
(……亮くん)
(言っとくけど、これはお前が減る話だ。減ったらお前は喰われやすくなる。俺はそれを知っててお前に頼んでる)
(うん)
(だから)
亮は言った。
(決めるのはお前だ)
◇
グードは、しばらく何も言わなかった。
(……それ、僕が決めていいの)
(お前の力だろ)
(でも、僕は亮くんの中にいるから)
(中にいるだけだ)
亮は言った。
(俺のものじゃない)
頭の中で、小さく息を吸う音がした。
この十四年、亮はこの少年の声を何度も聞いてきたはずだった。忘れていただけで、たぶん、毎日聞いていた。
その声が、初めて震えた。
(……あのね、亮くん)
(なんだ)
(僕、ずっと考えてた。僕は亮くんの椅子なのかなって。……僕の方が、座られてる側なんじゃないかって)
グードは言った。
(違ったんだね)
◇
(やるよ)
その瞬間、亮の右肩に、熱が流れ込んだ。
痛みではなかった。
風呂に肩まで浸かったときのような、鈍く広がる熱。関節の奥で引っかかっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
亮は、右腕を上げてみた。
上がった。
肩より上へ。頭の上まで。
「──金松さん?」
篠塚が、驚いた顔で振り返った。
「腕、上がってる」
「一球だけです」
亮は前に出た。
「篠塚さん、下がってください」
「何をする気ですか」
「捕ります」
◇
「金松さん!」
「あいつは、腕が全部壊れるまで投げます」
亮は、白線の一番近くに立った。
「壊れる前に、投げるものを取り上げる」
「あの速さですよ!」
「知ってます」
亮は膝を落とした。
両腕を、体の前で構える。
二日前、篠塚の球を受けたときと同じ形。あのときは息が全部押し出されて、膝が床についた。
今度は、あれより速い球が来る。
(グード)
(うん)
(ありがとう)
(……どういたしまして)
◇
雅人が、投げた。
亮の目に、その一部始終が見えた。
左肩が開く。骨格の癖。矯正しきれなかった、あの癖。
リリースの瞬間、折れた肘が跳ねた。ありえない角度からありえない速度で、腕が振り抜かれる。
「ヒュッ」
音は、風を切る音ですらなかった。
空気が、押し潰される音だった。
亮は動かなかった。
避けなかった。半歩もずれなかった。
球が、腕と腹の間に食い込む。
◇
「──ぐぅっ!!」
体が、後ろへ吹き飛んだ。
両足が床から離れて、背中から落ちた。肺の中の空気が、全部外へ出た。
視界が白い。
音が、遠い。
(──ボールは)
亮は、自分の腕を見た。
抱え込んだ両腕の間に、赤いゴムボールがあった。
「金松さん!!」
篠塚の声が、遠くから聞こえた。
「──確保! 確保しました!」
XVチームが沸いた。
亮は、床に転がったまま、ボールを胸に抱えていた。
右肩の熱は、既に引き始めていた。代わりに、燃えるような痛みが戻ってきている。
だが。
ボールは、こちらにある。
◇
白線の向こうで、雅人が立っていた。
投げ終わった姿勢のまま。
その右腕は、もう腕の形をしていなかった。肘から先が、重力に従って、ぶらりと垂れている。
「……あれ」
雅人が、自分の腕を見た。
「……なんだこれ」
焦点が、戻っていた。
「亮」
雅人の声が、震えた。
「なあ、俺の腕、どうなってんだ」
「雅人!」
「痛くねえんだよ。全然痛くねえのに、動かねえんだ」
◇
「投げられねえ」
雅人が言った。
「俺、投げられねえよ、亮」
その一言に、亮は胸を抉られた。
この男は、腕が壊れたことを嘆いていない。
投げられないことを嘆いている。
「雅人、聞け! もう投げなくていい!」
「なに言ってんだよ」
雅人は、へらっと笑おうとして、失敗した。
「俺、それしかできねえのに」
◇
そのときだった。
雅人の体が、糸を切られたように崩れた。
「雅人!!」
膝が折れ、上体が前に倒れ、そのまま床に沈む。
亮は白線に駆け寄った。越えられない。そこで止まるしかなかった。
「雅人! おい、雅人!」
返事はない。
だが、背中が動いていた。呼吸している。
(グード! あいつは!)
(──出ていった)
グードの声は、消え入りそうだった。
(あの子、雅人くんを捨てた。……もう投げられない体には、用がないから)
(生きてるのか)
(うん。生きてる。……たぶん、扉も閉まった)
亮は、床に手をついた。
助かった。
雅人は、生きている。
◇
(──でも、亮くん)
グードの声が、鋭くなった。
(あの子、まだこの部屋にいる)
亮は、顔を上げた。
白線の向こう。倒れた雅人の周りに、十七人が立っている。
誰も動いていない。
誰も、何が起きたのか分かっていない。
「──誰か」
亮は叫んだ。
「そいつから離れろ! 雅人に触るな!」
だが、遅かった。
十七人のうちの一人が、既に雅人の傍らに膝をついていた。
倒れた男を抱え起こそうとして、その肩に手を置いた男が。
◇
鷲尾だった。
「おい、しっかりしろ」
鷲尾は、雅人の体を揺すっていた。
「野上! おい!」
その動きが、途中で止まった。
彼は、自分の手を見た。
雅人の肩に置いた、その手を。
「……なんだ、今の」
鷲尾が呟いた。
「なんか、入ってきた」
「鷲尾さん!」
亮は叫んだ。
「離れろ!」
鷲尾は、亮を見た。
その顔に、初めて、恐怖が浮かんでいた。
「おい、金松」
「鷲尾さん──」
「体が、」
彼は、自分の右腕を見下ろした。
「体が、俺の言うこと聞かねえ」
◇
鷲尾が、立ち上がった。
立ち上がろうとしたのではない。立ち上がらされた、という動き方だった。
膝が伸び、背筋が伸び、首が持ち上がる。誰かに後ろから吊り上げられたような、人間の起き上がり方ではない起き上がり方。
彼の目から、光が抜けていく。
「──待ってくれ」
鷲尾の口が、動いた。
「待ってくれよ、俺は」
その言葉が、最後だった。
「俺は、自分の判断で──」
彼の右腕が、ゆっくりと持ち上がっていく。
肘が、耳の横まで上がった。




