第二十一話 断る
「八」
亮は、ボールを握ったまま雅人を見ていた。
白線の向こうで、その男は両手を広げて立っている。無防備な、球を受ける構え。
──そうなる前に、お前の球で終わらせてほしい。
「七」
亮は、口を開いた。
「断る」
◇
「……は?」
雅人の顔が、崩れた。
「なんでだよ」
「六」
「お前、俺の話聞いてたか? このままいったら俺、自分の球投げられなくなるんだぞ」
「聞いてた」
「じゃあ──」
「だから断る」
亮は言った。
「五」
「お前が『終わらせてくれ』って言うのは、お前の中の奴を楽にするだけだ」
雅人の動きが、止まった。
「そいつはな、お前の体を限界まで使って、壊れたら次に乗り換えるつもりでいる。……お前がここで死ねば、そいつは何も失わない。次の体を探すだけだ」
「四」
「お前が死んで、そいつが困ることは、ひとつもない」
◇
「三」
亮は、白線に向かって左足を踏み出した。
「二」
腕を振る。
山なりの球が、白線を越えた。
雅人の二メートル手前で、床を打つ。
バウンドした。
そして跳ね上がったボールは、後ろへ戻ろうとして──戻りきる前に、雅人の膝に、こつん、と当たった。
◇
雅人が、自分の膝を見た。
何も起きなかった。
輪郭は崩れない。溶けない。バウンドした球は、無効だ。
「──投球を確認」
天井の声が言った。
「接触を確認。計測を停止する」
「──ぶはっ」
鷲尾が吹き出した。
「またかよ! またやりやがった!」
「ずるいって言ったよな、俺」
雅人は膝をさすりながら、呆れた顔で亮を見た。
「なんで当てたんだよ。当てなきゃ無効球で終わったのに」
「接触が要るって言われたからだ」
「そのために俺の膝に当てたのか」
「一番近かった」
「最悪だな、お前」
◇
だが、その笑いはすぐに消えた。
跳ね返ったボールは、白線の向こう側に落ちていた。
XY側の一人が、それを拾い上げる。
「──こっちの番か」
鷲尾が言った。
部屋の空気が、また張り詰めた。
「三十秒の計測を開始する」
天井の声が、事務的に告げた。
「保持側から、接触を伴う投球がない場合、保持側から一名を排除する」
XY側の十八人が、顔を見合わせた。
同じルールが、そのままこちらに適用される。彼らも投げなければならない。
「──誰が投げる」
鷲尾が言った。
◇
「俺がやります」
雅人が、手を挙げた。
「野上」
「うち、投げられんの俺だけでしょ」
雅人は、拾われたボールを受け取った。
「二十五」
亮は、白線の向こうを見た。
雅人が、ボールを持って立っている。
(──駄目だ)
亮の背筋が冷えた。
(投げたら、あいつの肘が)
(うん)
グードが答えた。
(中の子は、たぶんもう決めてる)
◇
「全員、構えろ!」
篠塚が叫んだ。
「陣形そのまま! 俺が号令を出します! 金松さんは下がって!」
「篠塚さん──」
「あんたは指揮官だ。前に立つ役目じゃない」
篠塚は、吊った左腕のまま、白線に一番近い位置へ出た。
亮は、その背中を見た。
二日前、甲本拓海が立っていた場所だった。
◇
雅人が振りかぶった。
亮の目に、そのフォームがはっきり見えた。
左肩の開きが早い、あの癖。プロで矯正されて、それでも残っている骨格の癖。
そして、リリースの瞬間。
肘が、跳ねた。
昨日よりも、はるかに大きく。
「ヒュッ」
「──右ィッ!」
篠塚の号令。
十八人が半歩ずれる。
球は、亮の左一メートルを通り抜けた。人と人の間の通路を、正確に。
そして壁に激突した。
その音が、いつもと違った。
ゴム球が壁を叩く音ではなく、何か硬いものがぶつかった音だった。
◇
「……速い」
誰かが呟いた。
「今の、亮さんより速くなかったか」
亮は答えなかった。
白線の向こうを、見ていた。
雅人が、投げ終わった姿勢のまま、動いていない。
右腕が、体の前で止まっている。
その肘が。
「──雅人!」
亮は叫んだ。
雅人の右肘は、外側へ、ありえない角度で曲がっていた。
人間の肘は、そちらへは曲がらない。
◇
「あ、」
雅人は、自分の腕を見た。
それから、亮を見た。
「……痛くねえ」
「雅人!」
「なんで痛くねえんだろ、これ」
雅人の声は、驚くほど平坦だった。
跳ね返ったボールが、XY側に転がっていく。誰かがそれを拾って、雅人に差し出した。
雅人は、それを受け取った。
曲がった腕で。
「やめろ!!」
亮は白線に駆け寄った。
「雅人、やめろ! もう投げるな!」
「なんで」
雅人が、こちらを向いた。
目が、こちらを向いている。
だが、焦点が合っていなかった。
「まだ投げられるよ」
◇
(グード!)
(……あの子、痛覚を切った)
グードの声が震えていた。
(腕が壊れたのを、雅人くんに気付かせないようにしてる。壊れてる自覚がないまま、あと何球かは投げられる)
(何球だ)
(分かんない。でも、投げるたびに繋がってるところが減っていく)
(止める方法は)
(……ボールを渡さないこと)
亮の頭が、猛烈な速度で回転した。
ボールを渡さない。
それは、この試合で亮がずっとやってきたことだ。
だが今は逆だ。相手に渡っている。取り返さなければならない。
取り返すには──捕るしかない。
◇
「篠塚さん」
亮は言った。
「次の球、俺が捕ります」
「無理です」
篠塚は即答した。
「さっきので、あんたの右肩はもう終わってる。あの速さの球を受けたら、今度は骨が持ちません」
「じゃあ誰が捕るんですか」
「……」
「あいつは、腕が全部壊れるまで投げます」
亮は言った。
「壊れたら、中の奴は雅人を捨てる。捨てられた雅人は、次の試合で誰にも守られないただの人間になる。……そのとき、あいつは死にます」
篠塚は、亮の顔を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「甲本さんと、同じことを言ってますよ」
「知ってます」
亮は答えた。
「だから、同じ死に方はしません」
◇
白線の向こうで、雅人が構えた。
右肘が、外側へ折れたまま。
その腕を、彼はゆっくりと持ち上げていく。
「なあ、亮」
雅人が言った。
焦点の合っていない目で、笑いながら。
「今日、めちゃくちゃ調子いいわ」




