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第二十話 越えればいい

「二十五」


 亮の頭の中で、黒スーツの言葉が回っていた。


 ──三十秒以内に、保持側から白線を越える投球がない場合。


「二十四」


 白線を越える投球。


 当てろ、とは言っていない。


「二十三」


 亮は顔を上げた。


(──越えればいいのか)


          ◇


「篠塚さん」


 亮は、後ろに向かって言った。


「バウンドした球は、無効ですよね」


「え?」


「当たっても、アウトにならない」


「……そうです」


 篠塚の声が、わずかに上ずった。


「金松さん、まさか」


「跳ね返りは、誰が拾ってもいいんですよね」


「──先に触った方です」


「じゃあ、いけます」


 亮は、ボールを握り直した。


 右肩が悲鳴を上げている。だが、この球なら、全力はいらない。


「十八」


 亮は白線に向かって、左足を踏み出した。


          ◇


 二日前、拓海はこう言った。


 ──順回転をかけると、ボールは床に触れた瞬間に前へ食い込んで跳ねる。後ろ回転をかけろ。床に触れても跳ねずに、滑る。


 あのとき、亮は「跳ねない球」を覚えた。


 だが、覚えたのはそれだけではない。


 後ろ回転を強くかけて、なおかつ跳ねさせたらどうなるか。


 床に触れた瞬間、回転が前進を殺す。ボールは前に進む力を失い、その場で止まる。


 もっと強くかければ。


 ──戻ってくる。


「十四」


 亮の腕が振られた。


          ◇


 ふわり、と山なりの球が上がった。


 速くない。誰でも捕れる球だ。


 白線の向こう、二メートルほどの位置に、それは落ちた。


 XYチームの何人かが、反射的に手を伸ばした。


 だがボールは、彼らの膝の高さで床を打った。


 バウンドした。


「無効球!」


 誰かが叫んだ。


 ──そのとおりだ。バウンドした球は、当たってもアウトにならない。


 そして、跳ね上がったボールは。


 前に進まなかった。


「……は?」


 鷲尾が、間の抜けた声を出した。


 ボールは、床を打った位置から、後ろへ跳ねていた。


 白線を、逆向きに越えて。


 亮の足元へ。


          ◇


「──投球を確認」


 天井の声が言った。


「計測を停止する」


 XVチームの十八人が、一斉に沸いた。


「うおおおおっ!」


「なんだ今の! 何やったんだ!」


「戻ってきたぞ!」


 亮は、足元のボールを拾い上げた。


 肩が焼けるように痛い。だが、それだけだ。誰も死んでいない。


「金松さん」


 篠塚が、呆れたような顔をしていた。


「あんた、二日でどこまで覚えるんですか」


「甲本さんに教わっただけです」


「甲本さんもそんな球投げませんよ」


 篠塚は、少しだけ笑った。


「あの人、聞いたら悔しがりますね」


          ◇


「──ふざけんなァ!!」


 鷲尾が白線に駆け寄った。


「そんなもん、投球じゃねえだろ!」


「投球だ」


 亮は答えた。


「白線は越えた」


「屁理屈こねてんじゃねえよ!」


「屁理屈だ」


 亮は認めた。


「それの何が悪い」


 鷲尾が、言葉に詰まった。


 その後ろで、雅人が笑い出した。


「ぶはっ」


 腹を抱えて笑っている。


「お前、それずるくね?」


「ずるいな」


「甲子園でそれやってたら、俺、審判に文句言いに行ってたわ」


 雅人は、涙を拭う真似をした。


「……でも、いいと思う」


 その一言に、亮は胸を突かれた。


          ◇


 二度目のカウントは、すぐに始まった。


「三十」


 亮は、同じ球を投げた。


 バウンドして、戻ってくる。


「投球を確認」


 三度目も、同じだった。


 四度目も。


 XYチームの側で、明らかに空気が変わっていた。


 殺し合いを覚悟して白線の前に立った男たちが、いつまでも殺し合いが始まらない状況に置かれている。何人かは、もう構えるのをやめて、その場に座り込んでいた。


「なあ」


 XYの誰かが言った。


「これ、ずっと続けたらどうなるんだ」


「知るかよ」


「でも、誰も死んでねえぞ」


          ◇


 五度目の球を、亮が投げようとしたときだった。


「──ルールを追加する」


 天井の声が、部屋に落ちた。


 亮の腕が、止まった。


「これより、白線を越えた投球は、相手チームの人員に接触した場合のみ、投球として認める」


 部屋が、静まり返った。


「接触なき投球は、投球と見なさない」


 黒スーツが、部屋の隅から言った。


「三十秒の計測を再開する」


「──待てよ!」


 亮は叫んだ。


「後出しじゃねえか! そんなの競技じゃない!」


「競技だ」


 黒スーツは平然と答えた。


「規則を定めるのは主催者だ。……知っているだろう。人間の競技でも、同じことをする」


          ◇


「三十」


 カウントが始まった。


 亮は、ボールを握ったまま動けなかった。


 当てなければならない。


 当たれば、その人間は溶ける。


 白線の向こうには、十八人がいる。昨日まで同じ部屋で寝ていた男たちだ。鷲尾がいる。名前を知らない男たちがいる。


 そして。


「二十五」


 亮は、雅人を見た。


 雅人も、亮を見ていた。


「二十四」


「金松さん」


 篠塚が、低い声で言った。


「投げてください」


「……篠塚さん」


「あんたが投げなきゃ、こっちから一人減ります。それは俺かもしれないし、そこの人かもしれない」


 篠塚は、後ろの十六人を示した。


「その人たちは、あんたの号令で並んでます」


 亮の指が、ボールに食い込んだ。


          ◇


「二十」


 白線の向こうで、鷲尾が構えを解いた。


 そして、両手を広げた。


「おい、金松」


「……なんだ」


「俺に投げろ」


 亮は、目を見開いた。


「なんだと?」


「俺に投げろって言ってんだよ」


 鷲尾は、笑っていなかった。


「俺は、他人の号令で半歩ずれるのが嫌で、あんたのとこに行かなかった。……で、こっちに来て何やってたと思う? 何にもしてねえよ。ただ突っ立ってた」


「十七」


「あんたは屁理屈こねて、四回も時間を稼いだ。俺の十八人を、四回生かした」


 鷲尾は、自分の胸を叩いた。


「借りは返す。俺の判断だ。誰の号令でもねえ」


          ◇


「──待てよ、鷲尾さん」


 声がした。


 雅人だった。


 白線の前に、一歩出ている。


「十四」


「雅人」


 亮は、その名前を呼んだ。


「なあ、亮」


 雅人は、いつもの調子で頭を掻いた。


「俺さっき言っただろ。あの九回の続きやろうぜ、って」


「……」


「あんときお前、二死満塁で俺を抑えたんだよ。百三十二球目。インコース低め」


「十二」


「俺、あの球ずっと覚えてる」


 雅人は、両手を軽く広げた。


 打席に立つときの、あの構えではなかった。ドッジボールで球を受けるときの、無防備な構えだった。


「もう一回、投げてくれよ」


「馬鹿言うな」


「馬鹿じゃねえよ」


 雅人の声が、初めて低くなった。


「亮。俺、自分の腕がどうなってるか、分かってる」


          ◇


「十」


「昨日、肘が治った。ありえねえだろ。あんな腫れが一晩で引くわけがねえ」


 雅人は、自分の右腕を持ち上げた。


「治したのは俺じゃない。中に入ってる奴だ」


「九」


「治すってことは、まだ使うってことだ。……俺、そのうち自分で自分の球を投げられなくなる」


「雅人、やめろ」


「そうなる前に」


 雅人は、まっすぐ亮を見た。


 焦点は、完全に合っていた。


「お前の球で終わらせてほしい」

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