第十九話 消極的試合進行
チャリーン。
二日前と同じ、駄菓子屋のレジみたいな音がした。
「コイントスの結果──先攻、XYチーム」
亮は、目を閉じた。
(──最悪だ)
こちらの作戦は、ボールを持っていることが前提だ。持っていない状態から始まるなら、まず奪わなければならない。
奪うためには、相手の一投を捕るしかない。
「篠塚さん」
「無理です」
篠塚は即答した。
「左が使えません。片手であの球に触ったら、右も飛びます」
亮は、自分の右肩を見た。
腕は肩より上に上がらない。だが、腕を上げずに捕ることはできる。
「陣形、二日前と同じで」
亮は言った。
「前列は拾いに専念。捕るのは俺がやる」
◇
天井から、赤いゴムボールが落ちてきた。
白線の向こうで、それを受け取ったのは、雅人だった。
「うおっ、俺かよ」
雅人は、ボールを両手で持ったまま、困ったように笑った。
「なんか、ドラフト一位みたいで嬉しいな」
その後ろで、鷲尾が舌打ちをした。
「さっさと投げろ」
「はいはい」
雅人が、白線に近づく。
亮は、膝を落とした。
二日前、この体勢で篠塚の球を受けた。あのときは息が全部押し出されて、膝が床についた。あれをもう一度やる。今度は、終わった肩で。
(グード)
(うん)
(何もするな)
(……分かってる)
◇
雅人が振りかぶった。
亮は、そのフォームを見ていた。
美しかった。
中学のときからずっと見てきたフォームだ。左肩の開きが早いのが癖で、監督によく怒られていた。プロに入ってからだいぶ直っていたが、それでも骨格の癖は残る。
あれは、雅人の投球だ。
だが、リリースの瞬間だけ。
肘が、ほんのわずかに、跳ねた。
「ヒュッ」
球が、来た。
◇
速い。
昨日投げていたより、さらに速い。
亮は膝を落としたまま、両腕を体の前で組んだ。上げられない腕を、下から差し出すようにして。
ボールが、腕と腹の間に食い込んだ。
「──かはっ」
息が止まった。
右肩の奥で、何かがぶちりと音を立てた気がした。実際に音がしたのかどうかは、分からない。
亮は、床に膝をついた。
だが、腕の中にボールがあった。
「金松さん!」
「──確保!」
篠塚が叫んだ。
「陣形、崩すな! 全員そのまま!」
◇
「よっしゃあ!」
白線の向こうで、雅人が拳を突き上げた。
「捕った! やっぱすげえなお前!」
「……お前、敵だろ」
亮は、咳き込みながら言った。
「あ、そうだった」
雅人は本気で忘れていたような顔をした。
亮は、なんとか立ち上がった。
右腕はもう、感覚が半分しかない。肘から先が痺れている。
だが、ボールはこちらにある。
◇
「──回せ」
亮は言った。
「え?」
「回すんだ。誰も投げるな」
十七人が、戸惑いながら動き始めた。
亮から隣の男へ。その男から後ろの男へ。後ろから前へ。ゆっくりと、確実に、ボールが十八人の間を巡っていく。
白線の向こうが、ざわめいた。
「おい、何やってんだ」
「投げてこいよ!」
鷲尾が前に出た。
「おい金松! なんのつもりだ!」
「時間を潰す」
亮は答えた。
「あ?」
「こっちがボールを持ってる間は、誰も死なない。……お前らも、死なない」
鷲尾の顔が、赤くなった。
「ふざけんな! 勝負しろよ!」
「しない」
「なんでだ!」
「殺したくないからだ」
◇
白線の向こうが、静まり返った。
十八人が、亮を見ている。昨日まで同じ部屋にいた男たちだ。名前を知っている顔もあれば、知らない顔もある。
「……あんた」
誰かが言った。
「本気で言ってんのか」
「本気だ」
「じゃあ、この試合どうすんだよ」
「終わらせない」
亮は言った。
「制限時間があるのかも分からない。無いなら、無い方が都合がいい。……あいつらが痺れを切らして何か言ってくるまで、俺たちはこれを続ける」
鷲尾は、亮を睨みつけていた。
だが、彼の後ろで、何人かが明らかに肩の力を抜いていた。
殺し合いを二日間覚悟していた男たちだ。やらなくていいと言われて、抗える人間の方が少ない。
「……ちっ」
鷲尾が、白線から離れた。
◇
時間が流れた。
時計はない。体感で、五分か、十分か。
ボールは、十八人の間を回り続けていた。
誰も死ななかった。
亮は、その光景を見ていた。
二百人が六十七人になった。この部屋にいる三十六人のうち、一人も減っていない時間が、いま何分か続いている。
──こういうやり方も、あるんじゃないか。
そう思いかけた。
そのときだった。
◇
「──消極的試合進行を確認」
天井の声が、部屋に落ちた。
全員の動きが、止まった。
「保持側の攻撃意思が認められない。競技の続行が困難と判断する」
黒スーツが、部屋の隅から歩み出た。
「言っておくが、この競技に制限時間はない」
彼は言った。
「時間で終わるものではないからだ。……だが、進行しないものを進行させる方法は、いくつかある」
亮の背中が、冷えた。
「これより、三十秒の計測を開始する」
◇
「三十秒以内に、保持側から白線を越える投球がない場合」
黒スーツは、まったく声を荒らげなかった。
「保持側のチームから、一名を排除する」
「──ふざけんな!」
亮は叫んだ。
「これは競技の一部だ」
「どこがだ!」
「諸君は死ぬために集められた」
黒スーツは、初めて亮を正面から見た。
「死なない試合には、意味がない」
◇
「三十」
カウントが始まった。
亮の手に、ボールがあった。
誰かが叫んだ。
「投げろ! 金松、投げろ!」
「二十九」
白線の向こうで、鷲尾が構えている。その後ろに、十七人が散っている。
その中に、雅人がいた。
「二十八」
雅人は、笑っていなかった。
こちらを見て、ただ、静かに立っていた。
「二十七」
亮の指が、ボールの表面を探した。
後ろ回転。腰より下のリリース。床から五センチを這う球。
投げれば、当たる。
当たれば、その人間は溶ける。
「二十六」
亮は、自分の右腕を見た。
肩から先が、震えていた。




