第十六話 治っちゃったんだよね
「──雅人」
亮は、その名前を呼んだ。
雅人は、袖を掴んだまま笑っている。焦点の合っていない目で。
その状態は、二秒も続かなかった。
ぱち、と瞬きがひとつ。
次の瞬間には、いつもの雅人が立っていた。
「……あれ?」
雅人は、自分が亮の袖を掴んでいることに気付いて、慌てて手を離した。
「わりい。なんだこれ、俺、なんかしてた?」
「……お前、俺を止めた」
「止めた?」
雅人はきょとんとした顔をした。
「なんで俺がお前を止めんの」
演技ではなかった。
中学から数えて八年の付き合いだ。この男が嘘をつくときの顔を、亮は知っている。今のは、それではなかった。
本当に、覚えていない。
◇
「おいプロ野球」
鷲尾の声が飛んだ。
「話の途中だろ。続けろよ」
亮は、雅人から目を離した。
三十六人が待っている。ここで黙れば、二度と機会はない。
「恩赦の一名は、俺たちの数じゃない」
亮はもう一度言った。
「俺たちの中に入ってる連中の、数だ」
「だから、どこ情報だって聞いてんだよ」
「──俺の中にいるやつが、そう言った」
部屋が、静まり返った。
それから、誰かが笑った。
一人が笑うと、二人が笑った。
「頭やられてんだろ」
「昨日あんだけ人殺しゃそうなるわな」
「宇宙人が喋りかけてくるって、おい」
亮は、その笑い声の中に立っていた。
言い返す材料は、何もない。
◇
「──待ってください」
声がした。
壁際から、篠塚が立ち上がっていた。
左腕を吊ったまま、そのゼッケンにはXV7と書かれている。
笑い声が、止まった。
この部屋の男たちにとって、篠塚は昨日まで敵だった男だ。誰もが、扱いを決めかねている。
「俺は昨日まで、入られてました」
篠塚は、はっきりと言った。
「あんたら全員、俺が投げるのを見てたはずです。あれ、俺じゃないです。肘があの位置まで上がる人間なんて、いません」
何人かが、目を逸らした。
あの投球を見た人間には、否定のしようがなかった。
「昨日の途中で、そいつは俺から出ていきました。今は誰も入ってない。……だから、金松さんの言ってることは、たぶん本当です」
「たぶん、かよ」
鷲尾が言った。
「たぶんです。俺は中にいた奴と喋れませんでしたから」
篠塚は正直だった。
「でも、出ていかれた側として言えることが、ひとつだけあります」
「なんだ」
「あいつらは、俺の意思なんかどうでもよかった」
◇
鷲尾は、しばらく黙っていた。
それから、亮に向き直った。
「じゃあ聞くけどよ、プロ野球」
「なんだ」
「あんたの話が本当だとする。恩赦をもらうのは、俺たちじゃなくて中の宇宙人だ。……で、その一人を決めるのは誰だ」
亮は、答えられなかった。
「あいつらだろ」
鷲尾は言った。
「俺たちがどんだけ勝っても、最後に誰が助かるかを決めんのは、俺たちじゃねえ。そうだろ?」
「……そうだ」
「じゃあ、余計に終わってんじゃねえか」
部屋の空気が、目に見えて重くなった。
亮は理解した。
自分が伝えた真実は、この男たちを楽にしなかった。むしろ逆だ。一人しか帰れないという絶望を、そもそも自分たちには決定権がないという、もっと深い絶望に置き換えただけだった。
「なあ、みんな」
鷲尾は、亮ではなく部屋に向かって言った。
「こいつの言うことが本当でも嘘でも、やることは変わらねえ。生き残る。それだけだ。……人数が減って困ることは、ひとつもねえよな」
誰も、反論しなかった。
◇
夜が来た。
といっても、照明が落ちただけだ。時計がないので、それが夜なのかどうかも本当は分からない。
亮は眠らなかった。眠れなかった、というほうが正しい。
部屋のあちこちで、同じように眠っていない気配がある。ベッドを移動する音。囁き声。誰かと誰かが組み、別の誰かがそれを警戒する音。
一度、通路側で短い揉み合いがあった。すぐに収まった。
「……なあ、亮」
隣のベッドから、雅人の声がした。
「起きてる?」
「起きてる」
「昼間の話さ」
雅人は、天井を見たまま言った。
「俺が止めたって、ほんと?」
「ああ」
「……覚えてねえんだよ」
◇
亮は、身を起こした。
非常灯の緑がかった光の中で、雅人の横顔が見えた。
「雅人」
「ん」
「お前の中にもいる」
雅人は、否定しなかった。
「……だろうな」
「気付いてたのか」
「気付くだろ、そりゃ」
雅人は自分の右手を持ち上げて、非常灯にかざした。
「昨日、俺の投げた球、亮より速かっただろ」
「……ああ」
「あんなん投げられるわけねえんだよ、俺」
その声は、亮が今まで聞いたどの雅人よりも静かだった。
「俺さ、亮のこと化け物だと思ってたよ。中学のときから。同じだけ練習して、同じだけ走って、なんでこいつだけこんな球投げんだろって」
「雅人」
「でもさ。それが宇宙人のおかげだって聞いて、俺、正直ほっとしたんだ」
亮は、何も言えなかった。
「最低だよな」
雅人は笑った。
「親友が十四年積み上げたもんが全部インチキだったって聞いて、ほっとしたんだよ、俺」
◇
「……インチキじゃない」
亮は言った。
「あ?」
「昨日の最後の一球。あれは甲本さんの投げ方だ。俺の才能じゃない。教わって、覚えて、投げた」
「……」
「十四年やってなかったら、あれは投げられなかった」
雅人は、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「そういうとこだよ、お前の腹立つのは」
亮は、思わず息を吐いた。
こいつが本気で悔しがるのを見たのは、いつ以来だろうか。
「雅人。頼みがある」
「なんだよ」
「肘、見せろ」
◇
今度は、雅人は隠さなかった。
起き上がって、右腕を差し出す。
「いいけど、もう平気だぞ」
亮は、その肘に触れた。
そして、動きが止まった。
昨日、確かに腫れていた。内側が明らかに膨らんで、熱を持っていた。プロの投手なら誰でも知っている、あれをやったときの形だった。
いま、そこには何もなかった。
腫れていない。熱もない。左右のどちらが投げる腕なのか、触っただけでは分からないほど、きれいだった。
「……なんでだ」
「な? 平気だろ」
雅人は、へらっと笑った。
「朝起きたらさ、治っちゃったんだよね」
◇
(グード)
亮は、心の中で叫んだ。
(これは何だ)
(……直したんだよ)
グードの答えは、重かった。
(雅人くんの中の子が、壊れたところを直した。僕らは宿主の体をある程度いじれるから。骨も、腱も、時間さえかければ)
(治せるなら、いいことじゃないのか)
(違うよ、亮くん)
グードは、はっきりと言った。
(車を直すのは、乗る人が優しいからじゃない。まだ走らせたいからだよ)
亮の指先が、雅人の肘から離れた。
(あの子は、雅人くんの体をまだ使うつもりなんだ。壊れたら直して、また使って、また直して……そうやって、限界まで)
(限界まで使ったら、どうなる)
(直しきれなくなる)
グードの声が、小さくなった。
(そのときには、もう乗り換える先を決めてる)
亮は、隣で笑っている雅人を見た。
自分の肘が治ったと思って、素直に喜んでいる男を。




