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第十三話 ゼッケン

「金松」


 拓海は、ボールを持ったまま亮の隣に来た。


 声を落としている。白線の向こうに聞かせないためだ。


「一つ、確認させてくれ」


「はい」


「最初にゼッケンを配られたとき、黒スーツが何て言ったか覚えてるか」


 亮は記憶を辿った。


 あの、地下に降りてすぐ。ゼッケンを渡されたとき。


「……すぐに着替えろ、と」


「その次だ」


「試合中、これを脱ぐことは認めない」


 拓海は頷いた。


「なんでわざわざ、そんなことを言ったと思う」


 亮の背中に、冷たいものが走った。


「──脱げるからだ」


「そうだ」


 拓海は、自分の胸を見下ろした。


 XV7。


「あいつらは、俺たちを人間として数えてない。番号で数えてる。……番号を管理してるってことは、番号でしか判別できないってことだ」


          ◇


「甲本さん」


 亮は、その意味を理解した。


 理解して、拓海の腕を掴んだ。


「駄目です」


「離せ」


「白線を越えたら撃たれます!」


「知ってる」


 拓海の腕は、驚くほど細かった。それなのに、亮の手は振り払われた。


「よく考えろ、金松。俺があいつを当てれば、その瞬間に勝敗が確定する。確定した瞬間に、篠塚は処分される。……つまり、俺は勝つ前に動くしかない」


「それは甲本さんが死ぬってことです!」


「そうだ」


 あっさりと、拓海は言った。


「甲本さん」


「野上。あんたも押さえるな」


 いつのまにか、雅人が拓海の反対側の腕を掴んでいた。


「……押さえますよ。当たり前でしょ」


 雅人の顔から、笑いが消えていた。


「あんたが死んだら、俺ら誰が指揮すんですか」


「金松がやる」


「そんな無責任な」


「無責任だな」


 拓海は認めた。


「悪いと思ってる。本当に思ってる。……でもな」


 彼は白線の向こうを見た。


 うつ伏せに倒れたまま、背中だけがかすかに上下している男を。


「あいつは、俺の球を捕るのが好きだって言ったんだ」


          ◇


「二〇〇五年の世界大会でな」


 拓海は、二人の手を掴まれたまま話し始めた。


「準々決勝で負けたんだよ。俺の投げた球が浮いて、捕られて、返り討ちだ。……そのあと更衣室で、俺は自分の手を見ながら泣いてた」


 亮は、黙って聞いていた。


「そしたら篠塚が来て、隣に座って、何も言わずにずっといたんだ。一時間くらい。あいつ、そういうやつなんだよ。何も言えないから、隣にいることしかできない」


 拓海は笑った。


「そのあと、ぼそっと言った。『甲本さんの球、俺は捕れませんでした』って。……励ましてんのか煽ってんのか分かんねえだろ。あいつ、そういうやつなんだ」


「甲本さん」


「金松」


 拓海は、亮を見た。


「あんたはさっき、篠塚さんも勝つことを望むはずだ、って言ったな」


「……はい」


「そのとおりだ。あいつは、俺が三十七人を助けることを望む。俺が自分を助けに来ることは望まない」


 拓海の手が、亮の手をそっと外した。


「だから、あいつには黙って行く」


          ◇


「ボールを頼む、金松」


 拓海は、亮の手にボールを押しつけた。


「甲本さん──」


「聞け。時間がない」


 拓海の目は、もう白線の向こうにあった。


「あいつを倒すのはあんただ。肩は終わってる。速い球はもう投げられない。……だから、速い球で勝とうとするな」


「じゃあ、どうすれば」


「俺の投げ方を思い出せ」


 拓海は早口で言った。


「人間は、球が離れる前に逃げる方向を決めてる。足を見ろ。踵が浮いた方に体が行く。……逃げた先に、置いてこい」


「置いてくる」


「速さは要らない。当てるだけだ」


 拓海は、亮の胸を軽く叩いた。


「十二年分だ。持ってけ」


          ◇


 拓海は、自分のゼッケンを頭から引き抜いた。


 XV7。


 それを丸めて左手に握り込む。胸に何の番号もない男が、そこに立っていた。


「甲本さん、何を──」


「番号がなけりゃ、あいつらは俺を数えられない」


 拓海は走った。


 白線に向かって、まっすぐに。


「甲本さん!!」


 亮の叫びと同時に、天井の四隅で何かが動いた。


 黒く光るものが、一斉に拓海を向いた。


 拓海の靴が、白い線を踏み越えた。


 その瞬間には、彼はもう篠塚のところに着いていた。細身の男が、あの短い足で、あんな速さで走れるとは亮は思っていなかった。


 拓海は膝をつき、篠塚の体を抱え起こした。


 そして、震える手で、篠塚のゼッケンを掴んだ。


 XW3。


 それを頭から引き抜いて放り捨て、代わりに、握り込んでいたXV7を被せる。


 ずぶ濡れの布が、意識のない男の頭を通っていく。


「──識別番号、確認できず」


 天井の声が言った。


 初めて、その声がわずかに間を置いた。


「番号なき個体が白線を越境。規定により排除する」


 乾いた音が、四つ重なった。


          ◇


「甲本さん!!」


 拓海の体が、前に倒れた。


 背中の四箇所から、輪郭が崩れ始めていた。


 亮は白線に駆け寄って、そこで止まった。越えられない。越えたら自分も終わる。それは拓海の死を無駄にすることだ。


「甲本さん、甲本さんっ!」


「……うるせえな」


 拓海が、顔だけ動かした。


 自分の体が溶けていく音を聞きながら、彼は目だけで篠塚を確かめた。


 XV7のゼッケンを着せられた男が、そこに横たわっている。


「よし」


 拓海は言った。


「これで、こいつはうちのチームだ」


「甲本さん」


「金松。……足元だぞ。速さは要らねえ」


「はい」


「あと」


 拓海の声が、急に小さくなった。輪郭が肩まで来ていた。


「野上の肘、見といてやってくれ。あいつ、絶対に無理する」


 雅人が、白線の手前で膝から崩れた。


「……甲本さん」


「あー、くそ。しゃべりすぎた」


 拓海は、最後にほんの少しだけ笑った。


「篠塚に伝えといてくれ。……俺の球、まだ捕れてねえぞって」


          ◇


 床に広がったものは、湯気ひとつ立てなかった。


 三十七人が、動かなかった。誰も声を出さなかった。


 白線の向こうで、XW7が拍手をしていた。


「いやあ、いいものを見た」


 ぱち、ぱち、と間の抜けた音が響く。


「感動的だね。……で? あんた、投げられるの?」


 亮は、ボールを見た。


 右肩は熱を持ったまま、脈打っている。指先の感覚は半分しかない。もう一球投げれば、この腕は本当に終わるかもしれない。プロ野球選手としての将来が、ここで消える。


(──どうでもいい)


 亮は前に出た。


「グード」


 声に出して言った。


(なに?)


「手を貸すか、って言ったよな」


(……うん)


「断る」


 亮は、ボールを握り直した。


「これは、あの人がくれた球だ」


          ◇


 XW7は、両手を広げて構えていた。


 余裕の構えだった。当然だ。亮の球は浮く。浮いた球は捕れる。捕れば、勝負は終わる。


「来いよ」


 亮は、その足元を見た。


 右の踵が、わずかに浮いている。


(右に逃げる)


 拓海の言葉が、耳の奥にある。


 ──人間は、球が離れる前に逃げる方向を決めてる。


 亮は右足を上げた。


 肩の熱が、脳天まで突き抜ける。


 速さは要らない。


 腕を、半分だけ振った。


「──は?」


 XW7の顔が、初めて崩れた。


 遅い。


 あまりにも遅い球だった。ふわりと浮いて、緩やかに落ちながら、白線を越えていく。


 捕るには十分すぎる時間があった。


 だがXW7の体は、もう右に動き出していた。


 速球が来ると決めつけて、寄生者の反射速度で、一足先に。


「ちょ、」


 彼が右に跳んだ、その先に。


 球が、置かれていた。


「ポスッ」


 間の抜けた音がした。


 膝の裏に、緩い球が触れた。


          ◇


「XW7、アウト」


 天井の声が言った。


「な……」


 XW7の顔から、表情が抜けた。


「こんな、球で」


 彼は自分の膝を見た。それから亮を見て、そして、笑った。


「……ああ、そうか。さっきの男の球か」


「そうだ」


 亮は答えた。


「甲本拓海の球だ」


 輪郭が、崩れ始める。


「なるほど。人間ってのは、面倒くさいな」


 最後に彼はそう言って、床に広がった。


          ◇


「XWチーム全滅。XVチームの勝利」


 天井の声が、部屋に落ちた。


 誰も、歓声を上げなかった。


 三十七人が、床に散らばった無数の染みの間に立っていた。五十人で入ってきた部屋だった。


 亮は、白線の向こうを見た。


 XV7のゼッケンを着た男が、まだ息をしている。


「──篠塚を運べ」


 黒スーツが指示を出す。二人が白線を越えて、篠塚の体を抱え上げた。


「そいつは」


 亮は思わず言った。


「そいつは、生きてますよね」


 黒スーツはゼッケンの番号を確認して、事務的に答えた。


「XV7。勝者チームの人員だ。処分対象ではない」


 床に手をついて、亮は初めて、声を上げて泣いた。


          ◇


「──静粛に」


 黒スーツがマイクを取った。


「一回戦の結果を伝える。XVチーム、三十八名生存。XWチーム、生存者なし」


 三十八。


 亮は、思わず周りを見回した。


 この部屋に立っているのは、三十七人だ。


 足りない一人は、たった今、担架でここから運び出されていった。


 彼は淡々と続けた。


「なお、他会場においてXTチームとXUチームの試合も終了した。生存者は、両チーム合わせて二十九名」


 亮は顔を上げた。


 二百人が。


 六十七人になっていた。


「二回戦は、四十八時間後に行う」


 黒スーツは、そこで初めて、わずかに口の端を上げた。


「その前に、諸君に伝えておくべきことがある」


 三十七人が、彼を見た。


「このデスドッジで、最終的に恩赦を与えられるのは──」


          ◇


「一名だ」

第一部「虹ヶ丘」 完


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