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第9話:ホワイト化した最前線と休息の女神とフレンチトースト

「鯛出汁卵雑炊」の一件から一週間後の深夜。蔵の最奥にある黒い木製の扉が、カチャリと静かな音を立てて開いた。


「サカモト殿、夜分にすまない。……少し、話をさせてもらえないだろうか」


 入ってきた聖騎士団長レオノーラを見て、坂本は思わず目を丸くした。一週間前、胃から血を吐いて倒れ込んだ時の土気色の顔はどこへやら、今の彼女の肌には健康的な赤みが差し、白銀の鎧はまるで新品のように美しく磨き上げられていた。何より、その双眸からは疲弊の影が完全に消え去り、澄み渡るようなスッキリとした輝きを放っている。


「レオノーラさん。ずいぶん顔色が良くなりましたね」

「ああ、サカモト殿。すべては、貴殿に授かったあの『シフト管理』と『マニュアル』という名の奇跡のおかげだ」


 レオノーラはパイプ椅子にしなやかな体躯を預けると、深く、満ち足りた溜息を吐いた。


「……正直に言えば、最初は凄まじい反発があったのだ。騎士たち、特に古参の副団長などは『24時間常に武器を握り、死線に身を置くことこそが騎士の誉れ! 三交代などという生ぬるい真似ができるか!』と、激昂してな」

「まあ、そうなるでしょうね」


 坂本は苦笑しながら、注文を聞く前に、彼女のために温かいミルクティの準備を始めた。日本のブラック企業のワンマン社長や、昭和気質のベテラン社員も全く同じ台詞を吐くのを見てきたからだ。


「だが、私は団長命令として、貴殿のグラフ通りに三交代制を強制執行した。A班が防衛線を張る 8 時間、B班とC班には『いかなる理由があろうとも武器を置き、強制的に食事と睡眠をとれ』と命じた。さらに、過去の戦術を全て言語化した業務マニュアルを全庁に配布し、私が不在の夜間でも、現場の判断だけで迎撃行動が取れるようシステムを組んだのだ」


「素晴らしいトップダウンです。それで、結果はどうでした?」


 坂本が尋ねると、レオノーラは興奮を抑えきれないといった様子で身を乗り出した。


「最初は嫌々ながら従ってたようだが効果は劇的、という言葉すら生ぬるい! 万全の睡眠をとり、腹を満たした状態で交代する騎士たちの動きは、これまでの倍以上に機敏だった。集中力が途切れないため、魔獣の不意打ちによる防衛線の突破が皆無になったのだ。結果として……一ヶ月前まで毎日のように出ていた前線の犠牲者が、なんと十分の一にまで激減した!」


「十分の一……」


 横でしるこサンドを齧っていたオルドが、感心したように髭を震わせる。


「それだけではない。最も驚いたのは、私自身のことだ。私が寝ている間に魔獣の群れが襲来したのだが、副団長らは私の残したマニュアルを読み、完璧な陣形で敵を殲滅していた。私は翌朝、一歩も自室から出ることなく、ただ『撃退完了』の報告書を受け取ったのだ。……私は一度も剣を抜かず、ただシステムを回すだけで、最前線を完全に死守してしまった」


 レオノーラは、自らの手のひらを見つめた。かつては自分が前線で剣を振るい続けなければ崩壊すると思っていた戦場が、自分が眠っている間に、完璧な歯車として機能していたのだ。


「部下たちは今、私のことを『戦術の天才』、ひいては戦場に平穏をもたらした『休息の女神』とまで呼んで崇拝している。だが、違うのだ。私はただ、サカモト殿に言われた通り、ボスとしての仕事……すなわち『システムを構築し、自分を含めた部下を適切に休ませるタスク』をこなしたに過ぎない。……本当に、感謝している」


 彼女は席を立ち、坂本に向かって騎士の最敬礼を捧げた。組織に潰されかけた天才が、現代日本の合理性を手に入れ、真の最高経営責任者として覚醒した瞬間だった。


「頭を上げてください、レオノーラさん。私はただの無職ですから。……それより、頑張った最高のボスへ、私からお祝いです」


 坂本は、母屋のキッチンで仕込んできた皿を彼女の前に置いた。じゅわじゅわと甘い音を立てているのは、昨晩から特製の卵液にじっくりと漬け込み、バターでじっくりと焼き上げた、極厚の自家製フレンチトーストだ。仕上げに琥珀色のメープルシロップをたっぷりとかけ、粉糖をふわりと振ってある。


「これは……? パン、のようだが……」

「フレンチトーストです。疲れた身体には、甘いものが一番ですから」


 レオノーラはナイフとフォークを使い、慎重に一口大に切り分けて口に運んだ。その瞬間、彼女の身体がビクリと跳ね上がった。


「な……っ!? なんだ、この柔らかさは……!? 噛む必要すらなく、口の中でとろけていく……!」


 卵液が中心まで染みたパンから、じゅわっと温かいバターのコクとメープルシロップの強い甘みが染み出す。異世界のパサついた黒パンとは正反対の、ただ甘く、頭の芯がゆるむような感覚。噛むたびに口の中で形をなくしていくそれを、彼女は熱心に口へと運び続けた。


「美味しい……! 美味しいぞ、サカモト殿! この、口の中に広がる幸福感は一体何なのだ……!」


 かつて土気色の顔で倒れていた団長はどこへやら、今は口の端に白い粉糖をつけたまま、子供のように皿へフォークを突き立てている。その姿は、国を背負う重圧から解放された、等身大の20代の女性の姿だった。


「おい、レオノーラ! 我にも一口寄こさぬか!」

「ならん、オルド! これはサカモト殿が私にくれた『ボスの報酬』だ!」


 蔵の中で繰り広げられる、大魔導士と聖騎士団長の他愛のない口論。坂本はその光景を眺めながら、淹れたてのコーヒーを口に含んだ。


 外の世界では、自分はただのドロップアウトした敗残者だ。しかし、この蔵の喫茶店という安全圏の中では、自分の培ってきた経験が、誰かを救い、ホワイトな未来を創り出す力になる。


 日本海からの風が木造の壁を叩く音を聞きながら、坂本は、この小さな止まり木のマスターとして生きていく日々に、かつてない静かな充実感を覚えるのだった。

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