第10話:デスマーチの怨霊と「ガントチャート(工程表)」
深夜二時半。蔵の最奥、黒い木製の扉が、耳障りな悲鳴をあげて跳ね上がった。カビと埃の匂いに混じって、焦げ付いた鉄のような悪臭が鼻を突く。現れたのは、ボロボロの泥を被った布切れの塊――いや、女だ。髪は脂と煤で固まり、目は血走って瞳孔が開ききっている。
「おのれアレン……殺す。絶対に呪い殺してやる。レオノーラもだ。前線を広げるならよぉ、その分土を掘る人間の手と日数を計算しろよ、この糞馬鹿どもが……!」
畳の上でゴロ寝していたオルドが、短い悲鳴をあげて跳ね起きた。指先から滑り落ちた「しるこサンド」が、畳の隙間のゴミにまみれて虚しく転がっていく。
宮廷魔導建築士。十代の天才。そんな綺麗な肩書きは、今のこいつの前には何の役にも立たない。ただの壊れかけた泥人形だ。目の下には、死人のような土気色の隈がべっとりと張り付いている。
「サカモト……お前だな……!」
脂ぎった細い指が、坂本のヨレヨレのTシャツの胸元を掴む。爪の間に黒い泥が詰まっている。ツンとした酸っぱい汗の臭いが顔を打った。
「アレンの野郎は『予算はこれだけ、余計な様式は省け』って冷酷に切り捨てやがる。そのくせレオノーラは『三交代で防衛線伸ばしたから、すぐに新しい砦を作れ』だと。死ねよ。死ねばいいんだ。結局、割を食うのは全部現場だ。私のところだ……!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、坂本の胸ぐらをがたがたと揺さぶる。
知っている。この感触、この理不尽。ITの現場で嫌というほど味わった、あの上流の「綺麗な帳尻合わせ」のツケだ。上がスマートに効率化を決めるたび、辻褄を合わせるために末端の人間が吐血しながら土日を潰す。
「……ひとまず離せ。そこに座れ」
坂本は力任せにその手を剥ぎ取り、錆びたパイプ椅子を蹴り出した。
「何が滞ってる。工期だけか」
「職人どもがクソなんだ!」
ピアは自分の頭皮を激しく掻きむしり、フケと埃を撒き散らしながら喚いた。
「石積みのドワーフのオヤジどもは『魔導士の基礎が遅れてるから手待ちだ』って酒を飲み始める。魔導士の連中は『ドワーフが石を運ばないから術式が組めない』って互いに指をさし合ってる。木工ギルド?あいつらはもう端から諦めて博打の準備だ。誰も動かない。進捗なんか全然ない!私の完璧な図面が、あいつらの糞みたいな言い訳でただの紙屑になっていく……!」
どこにでもある。終わったプロジェクトの、いつもの風景だ。坂本は無言で立ち上がり、母屋の古い冷蔵庫を開けた。必要なのは説教じゃない。冷気と、麻薬じみた糖分、それから強烈なカフェインだ。取り出したのは、ガラスの小鉢に入った自家製のコーヒーゼリー。作り置きの苦い液をゼラチンで固め、上からエグいほどの練乳をぶっかけたやつ。
「食え。話はそれからだ」
「何だこれ……黒い、泥か?毒か?」
睨みつけながらも、ピアは震える手でスプーンを握り、黒い塊を口に押し込んだ。
「――ッ、ひうっ!?」
喉が変な音を立てて鳴る。冷たさが喉を焼き、次いで強烈な苦味と、脳が痺れるような甘みがダイレクトに突き抜けたんだろう。ガタガタ震えていた肩の動きが止まる。
「冷たい……何だこれ、苦いのに、頭の芯が痺れるほど甘い……溶けてた脳みそが、冷えて固まっていくみたいだ……」
無言でスプーンが往復する。数秒で鉢は空になった。目が、少しだけ正気の色を取り戻す。
「……生き返った。サカモト、今のなんだ。まぁいい、で、あのクソ現場をどうにかする方法はあるのか」
坂本は引き出しから、黄ばんだ大判の更紙を引きずり出した。四十半ばにもなって、またこんなものを書く羽目になるとは思わなかった。口元が自然と歪む。現役時代の、一番性格の悪かった頃の顔だ。
「ピアさん。奴らが言い訳をするのはな、全体の遅れが『見えてない』からだ。人間、数字や期限が曖昧なうちは、いくらでも自分に都合よくサボる」
坂本は紙に、横軸の日数と、縦軸のギルド名を乱暴に書き殴った。それぞれのタスクを太い線で繋いでいく。
「ガントチャートだ。全員の仕事を一本の絵にする。で、ここを見ろ」
魔導士の線の終わりから、ドワーフの線の始まりへ、赤いペンで無慈悲な線を引っ張る。
「クリティカル・パス。ここがズレたら全体が死ぬ、っていう絶対のルートだ。これを突きつける。『魔導士が遅れたから』とドワーフが言った瞬間、この紙を見せるんだ。『魔導士は昨日終わってる。遅れているのはお前らだ』ってな。言い訳の余地を、事実で叩き潰す」
ピアが息を呑む音が聞こえた。これまでこいつは、自分の頭の中の「完璧」を言葉で怒鳴り散らしていただけだ。だから現場は、自分がどれだけ全体を腐らせているか自覚しなかった。だが、この一本の線は、誰のせいで全員の休みが消えるかを、残酷なまでに可視化する。
「データで首を絞めるんだ」
坂本は胸ポケットから、少し刃こぼれしたアクリル定規と、使い古した4色ボールペンを放り投げた。
「これを使え。現場のタスクを全部この紙に吐き出させろ。管理される恐怖を教えてやるんだよ」
「下の線が透ける定規……それに、このインク……」
プラスチックの板を凝視するピアの顔に、どす黒い笑みが浮かんだ。
「いいわね、サカモト。データで外堀を埋めて、逃げ道をなくす……。明日の朝、あのクソ親父どもがどんな顔で絶望するか、今からゾクゾクするわ……」
定規とペンを血が出そうなほど握りしめ、十代の天才は、夜の闇の中へ消えていった。あとに残ったのは、カビ臭い空気と、空になったガラス鉢。明日から始まるであろう、血で血を洗うなすりつけ合いの光景を想像し、坂本は小さくため息をついて、ぬるくなった番茶をすすった。




