第8話:吐血寸前の聖騎士団長と鯛出汁卵雑炊
「サカモト! 手を貸してくれ! 今度は文字通り『命の灯火』が消えかけている者がおる!」
深夜二時。限界集落の静寂をぶち破り、最奥の黒い扉が勢いよく開け放たれた。入ってきた大魔導士オルドが背負っていたのは、白銀のフルプレートアーマーに身を包んだ一人の女だった。
「う……ぐっ、は……」
畳の上に崩れ落ちた女は、鎧の隙間からあふれ出る冷や汗で顔を濡らし、口元からは一筋の血が床へと滴っていた。エルディア王国最強の防衛部隊『聖騎士団』の総指揮官、レオノーラ。魔獣の侵攻を最前線で食い止める、国盾とも呼ばれる英傑らしい。
だが、今の彼女には最強の戦士としての威厳はどこにもなかった。腹部を抱え、まるで内側から臓物を握り潰されているかのように体を丸めて苦しんでいる。
「オルドさん、怪我ですか!? 救急車――いや、こっちの病院には出せないか!」
坂本が慌てて駆け寄ると、オルドは首を激しく横に振った。
「違う、刃傷の類ではない! 彼女は魔獣の連続襲撃に対し、不眠不休で一ヶ月間も戦場の最前線に立ち続け、先ほどついに胃から血を吐いて卒倒したのじゃ! 我が回復魔法で肉体の傷は癒せても、この内側から蝕む衰弱だけはどうにもならん!」
一ヶ月、不眠不休。その言葉に、胃の底からせり上がってくるような不快な既視感を覚えた。かつて深夜のオフィスで、終わらない進捗会議の最中、視界が狭くなって過呼吸で床にのたうち回った自分。あの時の自分も、彼女と同じように「自分がやらなければ組織が崩壊する」という、生真面目さと過剰な責任感の呪いに縛られていた。
「……私は、まだ、戦える……。私が退けば、防衛線が……部下たちが……」
レオノーラは焦点の合わない目で虚空を睨み、血のついた手で剣の柄を握ろうとする。その指先は痛々しいほどに震えていた。
「いいから、寝ててください!」
普段のやる気のない声からは想像もつかない大声が、自分の喉から出た。その声に宿る絶対的な社畜への共感に、レオノーラは気圧されたように動きを止めた。
「オルドさん、彼女の鎧のストラップを外して、少しでも呼吸を楽にさせてあげてください。……私は、胃に優しいものを作ってきます」
母屋のキッチンへと急ぐ。今の彼女の胃は、ストレスと過労で完全に胃壁が荒れ果て、悲鳴を上げている。刺激物は厳禁だ。コーヒーすら今の彼女には毒になる。
冷蔵庫から取り出したのは、昨日、隣町のスーパーで買っておいた高級な「鯛の出汁パック」、そしてパックご飯と卵。小鍋に水を張り、出汁をじっくりと取る。上品で、どこかほっとするような磯の甘い香りが漂い始めた。ご飯を冷水でさっと洗ってぬめりを取り、出汁で静かに煮込む。最後に塩をほんの少しだけ加え、溶き卵を回し入れる。蓋をして数秒。
『鯛出汁の卵雑炊』の完成だ。小鍋と器を盆に乗せ、蔵へと戻った。鎧を外され、ヨレヨレのインナー姿で横たわるレオノーラの枕元にそれを置く。
「……なんという、優しい香りだ……。戦場の泥と鉄の臭いしか知らなかった鼻に、こんな……」
「ゆっくり、少しずつ食べてください。噛まなくていいですから」
坂本にスプーンを握らされ、レオノーラは震える手で熱い雑炊をすくい、口へと運んだ。
「――っ」
口いっぱいに広がったのは、鯛の脂の甘みと塩気だった。じわっと舌の奥に染み渡る。異世界の戦場食といえば、干し肉と硬い黒パン、あるいは泥臭い塩スープが定番だ。しかし、この器の中にあるものは、ただ温かく、どこまでも胃に馴染む液体だった。傷つき荒れ果てた彼女の胃壁を、静かに潤していく。
「あ……あぁ……」
レオノーラの目から、大粒の涙が溢れ頬をツゥーと伝い零れ落ち、雑炊の器へと吸い込まれていった。
「私は……私は、怖かったのだ……。私が眠れば、すべてが終わるのではないかと。強くなければ、団長でいてはならないと……」
張り詰めていた緊張の糸が解け、彼女はまるで子供のように咽び泣いた。坂本はそれを静かに見守り、彼女が完食したのを見届けてから、パイプ椅子に深く腰掛けた。
「レオノーラさん。元・組織の中間管理職として言わせてもらいますけどね。――一人が頑張る組織は、遠からず絶対に破綻しますよ」
「……え?」
「あなたが24時間戦い続けなければ維持できない防衛線なら、それは最初からシステムとして壊れているんです。人間は機械じゃない。休まなければ絶対にパフォーマンスが落ちる。あなたが倒れたら、その時点で防衛線は全滅です。それは『責任感』ではなく、ただの『怠慢』ですよ」
坂本の冷徹で、しかし現実的な指摘に、レオノーラはハッと息を呑んだ。
「じゃが、サカモトよ。魔獣の襲撃は昼夜を問わんのだ。彼女が休めば、誰が前線を指揮するのだ?」
オルドの疑問に、坂本は胸のポケットからクシャクシャになったメモ用紙を取り出した。
「だからシステムを作るんです。現代日本の24時間稼働する工場や病院がやっている、労務管理――三交代制シフトと業務マニュアルです」
「さんこうたいせい……? ぎょうむ まにゅある……?」
「一日24時間を、8時間ずつの3チームに分けます。Aチームが戦っている間、Bチームは訓練や待機、そしてCチームは強制的に睡眠をとる。団長、あなたもそのローテーションの歯車に組み込まれるんです。そしたら、あなたが寝ている間の判断基準をすべて紙に書き起こしておく。それがマニュアルです。『この魔獣が出たら、こう動け』。それがあれば、あなたが現場にいなくても部下たちは迷いません」
坂本はメモ用紙をレオノーラの手に握らせた。そこには、1日の時間を3分割した円グラフと、シフト管理の基本骨子が日本語で書かれていた。
「休むこともまた、騎士団長としての重要な業務のうちです。万全の体調で、最高の指揮を執る。それが、部下の命を預かるボスの仕事ですよ」
レオノーラはそのメモを見つめた。目の下のクマは酷いままだが、視線だけはブレなくなった。
「……合点がいった。私は……戦い方を間違えていたようだ。サカモト殿、この恩、決して忘れん」
彼女は深く頭を下げると、メモを大切に懐にしまい、再び黒い扉の向こうの戦場へと戻っていった。
遠くで遠吠えのような音が響いた気がしたが、それもすぐに硝子窓を叩く夜風にかき消された。 坂本は残った卵の殻をゴミ箱に放り込み、冷えた自分の手を擦り合わせる。どれだけ異世界で業務改革が行われようが、明日も明後日も、自分はここから出ない。ただ、息を吸うと、まだ少し生臭い出汁の匂いが静まり返った蔵の中に漂っていた。




