第7話:「枠からはみ出た熱意に、一金貨の価値もない」
エルディア王国の象徴たる白亜の王宮。その一角にある財務部筆頭文官室は、連日、各部署の役人や陳情に訪れる貴族たちの怒号と熱気がこもる肥溜めのような場所だった。だが、その部屋の主であるアレンの机の上だけは、妙に白々とした無機質な静寂が保たれていた。
「おい、アレン! これは一体どういうことだ!」
重厚なオークの扉を乱暴に蹴り開けて入ってきたのは、バルドス公爵だった。王国でも一、二を争う名門であり、軍部にも強い影響力を持つ大貴族だ。赤みがかった豪奢な外套をなびかせ、背後には数人の私兵を従えている。その手には、王宮全庁に配布されたばかりの、コピー用紙の罫線を羊皮紙に写し取った一枚――『様式第一号』がくしゃくしゃに握りしめられていた。
「我がバルドス家が直々に提出した『夜会助成金』の特別申請書を、一行も読まずに突き返したそうだな! 伝統ある我が家名への侮辱か! それとも、若造が生意気にも王国の重鎮たる私に逆らうつもりか!」
公爵の怒号が室内に響き渡り、周囲の若い文官たちが恐怖で一斉に縮み上がった。かつてのアレンであれば、この段階で胃の腑を雑巾のように絞られる思いがし、冷え切った汗を流しながら、権力者の我が儘をどうにか予算の枠内に収めるための終わらない調整地獄へと自ら飛び込んでいただろう。
だが、今のアレンは違った。机に向かったまま、視線すら上げない。その右手には、坂本から授かった透明なプラスチックの軸のペン――『4色ボールペン』が握られていた。カチリ、と硬いプラスチックの音が響く。アレンは滑らかな手つきで手元の書類に「赤」でバツをつけると、ようやく冷淡な眼差しを公爵へと向けた。
その目は、かつての絶望に満ちた死んだ魚の目ではない。あらゆる感情を排し、システムを最適に稼働させることだけを目的とした、現代日本の冷徹な役人の目そのものだった。
「バルドス公爵。お言葉ですが、私はあなたの書類を拒否したのではありません。受理できないと申し上げているのです」
「何だと……!?」
「お持ちの書類をご覧ください。我が財務部が規定した『様式第一号』の枠外に、家柄の歴史や、夜会の意義に関する長文のポエムがびっしりと書き連ねられています。……公爵、この四角い枠の意味がお分かりになりませんか?」
アレンは立ち上がり、机の上の『様式第一号』の手本を指先でトントンと叩いた。
「この枠は、我が国の国庫が認識できる唯一の規格です。名前、金額、使途。それ以外の不純物が混入した書類は、我が部の処理速度を著しく低下させる雑音でしかありません」
「な、貴様……! 我がバルドス家が国家に捧げてきた情熱と忠誠を、雑音と言い切るか! 伝統の重みを知らん愚か者が!」
バルドス公爵が顔を真っ赤にし、腰の剣の柄に手をかけた。私兵たちも一歩前へ出る。殺気が部屋を満たした。
しかし、アレンの心は微塵も揺らがなかった。彼の脳裏には、あの薄暗い蔵の中で、静かにコーヒーを淹れていた坂本のやる気のない声がこびりついていた。『仕事に個性や熱意なんていらない。感情が挟まるから、システムがおかしくなるんですよ』
アレンはふっと息を吐くと、100均のボールペンを胸のポケットに差し込み、公爵を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「公爵。――枠からはみ出た熱意に、一金貨の価値もありません」
「……なっ……」
「国の予算、すなわち民から集めた血税が欲しければ、その有り余る情熱とやらを、この四角い枠の中にすべて収めてください。収まらないものは、この国には存在しないも同等です」
「き、貴様……!」
「もし不満があるならば、どうぞ予算なしのまま夜会を開催してください。我が財務部は、規格に適合した書類から順番に、機械的に金貨を配分するだけですので」
アレンの声には、怒りも、傲慢さもなかった。ただ、絶対的な規則という名の冷たい壁が、そこにあるだけだった。大貴族の威光も、軍事力も、この四角い枠の前では何の効力も持たない。なぜなら、予算の蛇口を完全に握っているのは、この部屋の主だからだ。
バルドス公爵は激しく歯噛みし、アレンを殺さんばかりに睨みつけたが、予算が完全に凍結される危険性の大きさに、ついに拳を震わせながら引くしかなかった。
「……覚えていろよ、若造。この無礼、タダで済むと思うな……!」
捨て台詞を残し、公爵は乱暴に部屋を去っていった。バタン、と扉が閉まると同時に、室内の文官たちから「おお……」という驚嘆の溜息が漏れた。あの傲慢な大貴族が、実務の書類手続きだけで完璧に撃退されたのだ。
「全員、手を止めるな」
アレンは冷徹に声をかけた。
「次の書類だ。枠からはみ出ているものはすべて、読まずにゴミ箱へ放り込め」
「は、はいっ!」
王宮の事務効率は、この日を境に爆発的に向上していった。どんな有力者が圧力をかけようとも、アレンは様式第一号とボールペンという事務兵器を盾に、機械的に書類を裁き続けた。
深夜。全ての仕事を片付けたアレンは、シワだらけの上着を手に取り、誰もいない執務室を出た。向かう先は、王宮の寂れた裏路地に佇む、あの黒い扉の向こう――日本海からの風が吹く、静かな蔵の喫茶店。
夜風が王宮の回廊を冷たく吹き抜けていく。アレンは胸ポケットのプラスチックのペンの感触を確かめ、小さく息を吐いた。向こうの世界で待っているだろう、あの冷めきったマスターの顔を思い浮かべながら、闇の中へと足を早めるのだった。




