第6話:100均ボールペンと「様式第一号(テンプレート)」
「こ、個性がいらない……? 仕事の本質は、ただの事務処理……?」
アレンは、呪いの言葉でも耳にしたかのように呆然と呟いた。浅煎りコーヒーの酸味とフルーティーな風味が、強制的に覚醒させられた脳へ、坂本の声が冷たく突き刺さる。異世界エルディア王国において、文官とは王への忠誠と、身を削る情熱を捧げる高潔な職務のはずだった。寝食を惜しみ、血尿を出して書類と戦うことこそが美徳――その狂った泥沼の中に、アレンはずっと引きずり込まれていたのだ。
「そうです」
坂本はスチールラックの隅から、何枚かのA4コピー用紙と、プラスチックの安っぽいペンを取り出して戻ってきた。
「あなたが向き合っているのは、貴族のプライドでも大司教の信仰でもない。ただの『数字』と『事実』です。彼らが羊皮紙に書き連ねてくる五ページものポエムは、業務における完全なノイズ、つまりゴミです。そんなものをいちいち脳に通していたら、精神が焼き切れるのは当たり前です」
「しかし……! 我が国の申請書は、古くからの伝統で『陳情者はその至誠を余すことなく記述すべし』と定められておりまして…… 。皆、思い思いの羊皮紙に、思い思いの長さで書き連ねてくる。それを一枚ずつ解読し、隠された真意を読み解くのが我ら文官の矜持で……」
坂本は片手を軽く挙げてそれを遮った。その表情はどこまでも平坦で、冷淡ですらあった。
「アレンさん。それは矜持ではなく、単なる非効率の放置です。私のいる世界では、そういうのを『無能な働き者』の温床と呼びます」
バッサリと切り捨てられ、アレンが喉を詰まらせる。隣でクッキーを齧っていたオルドが、「ほう……」と嫌な笑みを浮かべて目を細めた。
「いいですか。相手が誰であろうと、予算の申請に必要な情報は四つだけです。『誰が』『何のために』『いくら求めていて』『その根拠は何か』。これ以外の文字は、すべて読む必要のない蛇足です。それを強制的に相手に守らせるための道具が、これです」
坂本は、持ってきた白いコピー用紙を畳の上にトンと置いた。黒いインクの直線で規則正しく区切られた、いくつかの無機質な四角い枠。一番上には、大きく太い文字でこう印刷されている。
【様式第一号】予算交付申請書
「な……なんですか、この奇妙な線画は……?」
アレンが這いつくばるようにして、その紙を凝視する。
「現代日本の役所や企業を支える最強の呪文、テンプレートです」
坂本は淡々と説明を続けた。
「この『申請者名』の枠には名前を、『要求金額』の枠には金貨の枚数を、『具体的な使途』の枠には理由だけを書かせる。そして、最も重要なルールはこれです――『枠の外に書かれた文字は、いかなる理由があろうとも一切審査しない。枠からはみ出た申請は、その時点で自動的に却下(門前払い)とする』」
「なっ……!?」
アレンの顔が引きつった。
「そ、そんなことをすれば、大貴族や神殿の連中が『我が一族を愚弄する気か!』と激怒します! 枠の中に収まるような安い家柄ではない、と……!」
「怒らせておけばいいんですよ」
坂本は冷たい目で言い放った。
「彼らが怒るのは、自分たちが特別扱いされていないからです。だからこそ、国の一律のルールとして、王命なり何なりでこの様式第一号を公式化してしまうんです。『王宮の財政健全化のため、今後はこの魔導様式以外での申請は受け付けない』とね。もし文句を言う貴族がいたら、こう言って突っぱねなさい。――『制度ですので』、と」
「……っ!」
アレンの身体が微かに震えた。制度ですので。その一言は、あらゆる理不尽な圧力を無効化する、絶対的な防壁になり得るのではないか。個人の感情や人間関係をすべて遮断し、規則という巨大な歯車の一部として淡々と処理する。それは、これまで受けてきたどんな文官教育よりも冷酷で、そして完璧に合理的なシステムだった。
「これなら……」
アレンの指が、震えながら白い紙の枠線に触れる。
「これなら、あの忌々しいポエムを読まなくて済む。五ページの羊皮紙をめくる必要もない。ただ、この四角い枠の中の数字だけを見て、予算が妥当かどうかを一瞬で判断できる……! 処理速度が、今までの百倍以上に跳ね上がる……!」
「まだありますよ」
坂本は、もう一つの秘密兵器をアレンの前に差し出した。透明なプラスチックの軸の中に、黒、赤、青、緑の四本の細い筒が入った、現代日本ではごくありふれた100円均一の4色ボールペンだ。
「これは……ペン、ですか? 羽根もついていないし、インク壺も見当たりませんが……」
「ノック式ボールペンです。この頭の部分を押し下げてみてください」
アレンがいぶかしげに黒いレバーをカチリと押し下げると、ペンの先端から極細の金属球がシャキッと顔を出した。
「試しに、その様式第一号に何か書いてみてください」
アレンは言われるままにペンを握り、紙に文字を走らせた。サラサラサラ……。
「っ!?」
アレンの手が止まった。信じられないといった様子で、自分の手元を見つめる。
「な、なんだこの滑らかな滑りは……!? 羊皮紙に引っかかる感覚がまったくない! それに、インクが全く掠れないし、乾くのを待つ必要もない……!?」
異世界での筆記作業は重労働だ。大鳥の羽根を削ったペン先に、どろりとした煤のインクを浸し、数文字書くたびにインク壺へ戻す。羊皮紙の上にインクが溜まれば砂を振って乾かし、ペン先が潰れればナイフで削り直す。そのすべての無駄な動作が、この一本の小さな筒によって過去のものとなっていた。
「さらに、この横の赤いレバーを下ろせば」
坂本が横から手を伸ばし、カチリと音を立てる。
「ほら、赤い文字が書けます。却下する書類には赤でバツをつけ、保留は青、可決は黒。インク壺を持ち替える必要すらありません」
「素晴らしい……! 素晴らしいぞ、これは……!」
アレンの死んだ魚の目に、急速にギラギラとした、鋭く冷徹な光が戻っていく。インクで汚れる指先、羽根ペンを削る時間、インクが乾くのを待つ数分間。それらすべての業務のノイズが削ぎ落とされていく快感。
「サカモト……お主、やはりただ者ではないな」
オルドがコーヒーを飲み干し、感心したように息を吐いた。
「この『てんぷれーと』と『ぼーるぺん』……これらは文官の負担を減らすための道具ではない。王宮の全権力を『規則』という見えない鎖で縛り上げる、最凶の事務兵器じゃ」
「私はただ、事務作業の基本を教えただけです」
坂本は立ち上がり、アレンを見下ろした。
「アレンさん。あなたは真面目すぎる。国を背負うなんて大層なプライドは、今すぐゴミ箱に捨てなさい。あなたはただの、優秀な『処理機械』になればいいんです」
「処理、機械……」
アレンは深く頷き、様式第一号の束と、4色ボールペンを胸に深く抱きしめた。その表情からは、先ほどまでの悲壮感は消え去っていた。あるのは、すべての理不尽をシステムで蹂躙しようとする、冷徹な役人の顔だった。
「分かりました、サカモトさん。私は……組織の冷酷な歯車になります。明日、王宮の朝会で、この様式第一号を突きつけてやります。枠からはみ出た無能どもを、すべて叩き落とすために」
深く一礼し、アレンは黒い扉の向こうへと去っていった。その背中は、炎上案件を鎮圧しに向かう、かつての坂本の姿にどこか重なって見えた。
「……やれやれ」
静まり返った蔵の中で、坂本は残ったコーヒーを口に含む。冷めて酸味の立った液体が、舌の上に嫌に残った。硝子窓がまたガタガタと夜風に震えている。向こうの世界でこれから始まるだろう面倒事に思いを馳せるが、すぐに思考を止めた。どうせ自分の知ったことじゃない。
引きちぎったティッシュで床の汚れを適当に拭き取り、坂本はまたパイプ椅子に深く身体を沈めるのだった。




