第5話:死んだ魚の目をした若きエリート文官
「蔵の喫茶店」がひっそりとオープンしてから数日。蔵の奥から引き出した古い作業台をカウンター代わりに据え、さらに蔵の隅に積んであった擦り切れた畳を床に広げて即席の座敷スペースを作ったが、看板も出さず、現代日本の限界集落の片隅に佇むその場所に、客など来るはずがなかった。ギィ……と、建付けの悪い木扉が湿った音を立てて開いたのは、深夜の一時を回った頃だった。
「サカモト! 済まぬが、至急『ブレンド・オルドⅠ』を一杯、いや、特大の器で淹れてくれ! 我らの結社に、どうしてもお主のあの『珈琲』を必要とする重患が迷い込んできた!」
声を響かせて入ってきたのは、常連兼、共同経営者を気取る大魔導士オルドだった。だが、今夜は一人じゃない。細い腕で若い男の身体を無理やり支えるようにして、蔵の畳の上へと引きずり込んできた。
「……う、あ……う……」
畳の上にへたり込んだ若者は、仕立ての良い上質な白い官服を着ていた。だが、その衣服は皺だらけで、あちこちに黒いインクのシミが飛び散っている。金髪はボサボサに乱れ、顔面は土気色に変色していた。
椅子から立ち上がり、その若者の目を見た瞬間、ドクンと心臓が嫌な跳ね方をした。 それは、かつて深夜二時のオフィスで、過呼吸を起こして床にのたうち回る直前に鏡で見た、あの「死んだ魚の目」そのものだった。光を完全に失い、世界のすべてを拒絶し、ただ物理的に開いているだけの、底暗い虚無の眼球。
「オルドさん、その人は?」
「エルディア王国財務部のトップ、筆頭文官のアレンじゃ。二十代にして国の予算を全て統括する、誰もが羨む若き天才エリート……のはずなのだがな」
オルドが嘆息しながら、アレンの脇を抱えてパイプ椅子に座らせる。アレンの身体は、まるで骨の抜けた人形で、背もたれへぐにゃりと預けられた。
「……もう、無理です……」
アレンのひび割れた唇から、呪詛のような掠れた声が漏れ出た。
「明日の朝までに、北方法術騎士団の遠征予算、中央神殿の修繕費、それから……それから、バルドス公爵が提出してきた『我が一族の栄光を称えるための夜会』の特別助成金申請書、合計三百通の査定を終わらせねばなりません。……ですが、あの方々の書類は……書類ではない。ただの狂気です……」
アレンは頭を抱え、ガタガタと震え出した。 国を背負う若き天才。だがその実態は、坂本がいたIT企業の中間管理職の泥沼と何ら変わりはなかった。上層部の王族や大貴族からは「なぜ予算が降りないのか」と理不尽に怒鳴られ、現場からは「机の上の仕事しかしていない」と突き上げられる。それぞれの部署がメンツをかけて予算を奪い合い、その全てのシワ寄せが、実務のトップであるアレンの机の上に「書類の山」となって積み重なる。
「文字が……読めないのです。羊皮紙を開くと、まず『我が一族は四百年前の聖戦において――』という家柄の自慢話が三ページ続き、最後に『よって金貨三千枚を要求する。断れば神罰が下るであろう』とだけ書かれている。神殿の申請書にいたっては、大司教の有難いポエムが五ページにわたって綴られており、具体的な使途がどこにも書いていない……! これを……これをどうやって査定しろと言うのですか……!」
アレンの呼吸が浅く、速くなっていく。あの、泥の中に沈んでいくような感覚の入り口だ。 坂本は何も言わず、ただ静かに、しかし指先だけが勝手に動く手際で湯を沸かし、コーヒー豆を挽き始めた。ガリガリ、ガリガリという規則正しい摩擦音が、蔵の空間に響く。 今夜の豆は、あえて深煎りのブレンドを選んだ。アレンの脳を包むドロドロとしたストレスの霧を、強烈な一撃で吹き飛ばすためだ。
正確な湯量、正確な温度。あの反吐が出るような坂本のサラリーマン人生が、唯一の趣味を磨き上げた「完璧なドリップ技術」が、漆黒の液体を滴らせる。香ばしく、どこかどっしりとした温かいアロマが、蔵の空気を包み込んでいった。
「……っ、この、香りは……?」
アレンが、わずかに鼻を動かした。 淹れたてのコーヒーを厚手のマグカップに注ぎ、アレンの前に、無造作に置く。
「いいから、これ飲んでください。熱いので、少しずつ」
アレンは、促されるままに震える手でカップを持ち上げ、口をつけた。 ガツンと脳を殴るような濃厚な苦味。しかしそれは不快な焦げではない。脳の髄まで染み渡るような、圧倒的にクリアで力強い覚醒の衝撃だった。
「あ……あぁ……」
ゴクリ、と喉が鳴る。温かい液体が胃に落ちるたび、アレンの「死んだ魚の目」に、じわりと、小さな生気の光が戻ってきた。
「なんだ……これは。頭の中の、あの忌々しい貴族たちのポエムの残像が、綺麗に消えていく……。思考の霧が、晴れていくようだ……」
「少しは落ち着きましたか、アレンさん」
坂本は、自分の分のマグカップを手に、アレンの対面に腰掛けた。そして、かつて自分自身がもっと早くに気づくべきだった、冷徹で、しかし絶対的な真理を、やる気のない声で告げた。
「あなたの苦しみはよく分かります。私も同じでしたから。……でもね、アレンさん。そもそも、仕事に個性や熱意なんていらないんですよ」
「え……?」
アレンが目を見開く。異世界において、文官の仕事とは「自らの知性と情熱を尽くして王に仕えること」と教え込まれてきた彼にとって、それは天動説を覆されるような言葉だった。
「あなたが死にかけている原因は、申請者たちが書類に個性や情熱、あるいは家柄なんていう、仕事に関係のない不純物を混ぜて提出してくるからです。仕事の本質は、ただの事務処理です。そこに感情が挟まるから、システムがおかしくなるんですよ」
坂本はそう言うと、立ち上がり、蔵の隅にあるスチールラックへと向かった。
「事務作業の地獄を終わらせる方法を、教えます。――お役所仕事の本当の恐ろしさを、見せてあげましょう」
坂本の目は、かつて凄腕のプロジェクトマネージャーとして炎上案件を冷酷に鎮圧していた頃の、あの嫌な輝きを取り戻していた。




