第50話:巡るシステムログと、「定期メンテナンス」
五年におよぶ計画と、運用マニュアルの引き継ぎが完了してから、数日。深夜二時。これまでは毎晩のようにアレンたちが血相を変えて飛び込んできた、あの嵐のような日々は、嘘のように静まり返っていた。
だが、蔵の扉は死んでいない。
「マスター坂本、今週分のバッグ合計三十点、間違いなく納品しました!検収を!」
アレンがそう声を張ると、ハローワークで雇われた平民の荷運びたちが、小気味よい声を響かせ、型崩れのない見事な革製品を蔵の中へと運び込んでくる。同行したアレンとピアも、今や立派な発注元として、ビジネスライクに進捗報告書を差し出す。毎晩の泥臭いデバッグは終わり、定期的な定例ミーティングへと、関係は静かにシフトしていた。
「それではマスター、また来週!」
二人が元気に異世界の夜へと帰っていくのを見送り、扉が閉まる。静まり返った蔵に残されたのは、坂本と、カウンターの隅でポテトチップスとしるこサンドを交互に囓っている大魔導士オルドの二人だけだった。
「ひっ、ひっひ。嵐が去って、ようやくいつもの静けさに戻ったのぉ、マスター」
坂本は小さく苦笑し、静かに湯を沸かした。今夜のコーヒーは、マスターと常連客ではない。ただの友人として、他愛のない世間話をするためのものだ。
銅製ポットから細く注がれる湯が、コーヒーの粉をふっくらと膨らませ、蔵の中にこれまでで一番深く、優しい香りを広げていく。坂本はカップにコーヒーを注ぎ、一つを手元にもう一つをオルドの前に差し出す。
「オルドさんどうぞ、今日は奢りです」
「おお、ありがたい。しるこサンドとの相性も最高じゃからな」
そう言うと、オルドはしるこサンドを口に入れコーヒーを一口啜る。
柔らかで落ち着いた空気の中で雑談を交わす二人。
ふと、オルドが温かいカップを両手で包み込みながら、古い木の節目が残る蔵の扉を見つめた。
「時にサカモトよ。かつてワシとお主で、この扉を跨いでテストをしたのを覚えているか?」
「ええ。蔵の外、私がエルディア側へ一歩でも出れば翻訳が切れ、騒音が押し寄せあなたの言葉がただの雑音にしか聞こえなくなる……あの境界線テストですね」
「そうじゃ」
オルドはコーヒーの湯気の向こうで、鋭い目を向けた。
「お主の頭脳があれば、ワシらの魔導を協力させて、この翻訳結界の仕組みを解き明かすことなど容易かったはず。それを応用すれば、国中で言葉を通じ合わせる大がかりなシステムを作ることもできた。なぜそれを望まず、この蔵の中だけのルールにとどめた?」
坂本はドリップする手元を微動だにさせず、抽出される美しい琥珀色の滴を見つめながら、穏やかに笑った。
「オルドさん。すべてを求めればより良くなる。そう思うのは余り良い発想ではありません。仕事とは、どこかで線を引くことにあると思っています。優れたシステムというのはね、最初から適用範囲が明確に定義されているものなんですよ」
「スコープ、とな?」
「ええ。私はこれまで、立派な理想を掲げて大風呂敷を広げ、結局誰も管理しきれずに破綻していくプロジェクトを山ほど見てきました。キャパシティを超える広すぎるスコープは、管理コストを増大させ、いつか必ず制御不能になってシステムそのものを破綻させます」
坂本は自分の手元のカップに視線を落とした。
「私が守りたかったのは、この蔵の中の静かな平穏と、日本側にいる娘の未来だけです。魔法の使えないただの人間である私には、この扉に守られた翻訳結界の中という範囲だけが、一番ジャストサイズだったんです」
「ハハハ!どこまでもブレない、欲のない男だな、お前は!」
大魔導士の老いた笑い声が、蔵の頑丈な梁に心地よくこだました。
カウンターに置かれた、二つの温かいコーヒーカップ。言葉の通じる安全な止まり木には、極上のコーヒーの香りが満ちていく。一歩も蔵から出ずに、二つの世界を仕組みだけで救い上げ、同時に日本側の自社ビジネスも自動化させて娘の未来を守り抜いた――元中間管理職の男は、今静かにコーヒーを味わっている。
「ごちそうさま。またな、マスター」
オルドが満足そうにカップを空にし、異世界の闇へと消えていく。
午前六時、日本。坂本は自室のデスクに戻り、パソコンの画面で会計ソフトの稼働ログを確認する。スマートフォンには、日本の顧客からの「素晴らしい商品です、ありがとう」というレビューの通知が小さく鳴った。
画面を閉じても、扉の向こうの五年計画は、アレンたちの手で永久に、正常に稼働し続ける。
「五年後、王都中に綺麗な水が流れるのが、本当に楽しみだな」
坂本は静かに、目頭の奥に残る鈍い痛みを指で揉みほぐした。明日もまた、日本側の出荷処理と新しいデザインの型紙構築が待っている。安らかな眠りへと落ちていくのではない。ただ、押し寄せる日常のタスクに向き合うために、男は重い身体を布団へと沈め、短く、現実的な息を吐き出すのだった。




