第49話:5年先の設計図と、「中間レビュー」
深夜二時。蔵の重い木扉が勢いよく開き、アレンとピア、そしてその後ろから、豪奢な外套を羽織ったライナス国王が姿を現した。アレンたちの顔は泥と煤で黒く汚れ、衣服の袖はボロボロに擦り切れている。だが、その目だけが異様な熱を帯びてギラギラと輝いていた。
「マスター坂本……!やりました、ついに東の先行区画、水が通りました……!一滴の漏れもなく、完璧に!」
カウンターに広げられた図面には、乾きかけの泥と、新設された給水塔からスラム跡地へと繋がる青いインクの線が滲んでいる。
「坂本よ、ワシも前線で居ても立ってもいられず付いてきてしまった。平民どもが泥ではない、透き通った水を頭から浴びて泣き喚いておったぞ。お主の知恵には、つくづく恐れ入る」
国王が白髭を震わせ、喉を鳴らして笑った。
カウンターの特等席でオルドが長い耳をピクリと動かす。坂本は表情を崩さなかったが、目元の強張りを少しだけ緩めて頷いた。
「おめでとうございます。あなたがたが現場で泥水をすすり続けた結果です。悪くない通過点だ」
坂本は日本の引き出しから、紺色のブリキ缶を取り出した。葉巻型のロールクッキー。蓋を開けると、甘いバターの匂いが蔵の黴臭さを一瞬で塗り替える。淹れたての熱いコーヒーと一緒に差し出した。
「国王陛下もアレンさんも、指先を動かしてください。脳の疲労にはこれが一番効く」
「ほう、随分と妙な形の菓子だな」
国王が、薄く巻かれたクッキーを無造作につまみ、口へ放り込む。サクッ。静かな蔵に、驚くほど軽快な破砕音が響いた。王族の舌にとっても未体験の、バターの暴力的なコク。
「うむ……!」
国王はと唸ったまま絶句。
「美味しい……っ」
ピアも、煤だらけの顔を綻ばせてクッキーに噛み付いた。
だが、アレンだけがロールクッキーを持ったまま、その場に立ち尽くしていた。視線は、泥のついた図面に落ちている。
「ですがマスター……今回の成功は、王都全体のまだ一割です。全域の開通には、どれだけ急いでもあと四年半はかかる。それなのに、マスターに頼り切るこの夜は、これで一度区切りなんですよね……?正直、明日からあなたなしで、この泥沼を維持できるか、怖くて堪らないんです」
ピアも食べる手を止め、不安そうに坂本を見つめた。数々の致命的な問題を、見たこともないロジックで叩き潰してきた男。その背中が見えなくなる恐怖に、若者たちの肩が小さく震えている。
坂本はコーヒーカップをソーサーに戻した。カチャリと軽い音が響く。
「アレンさん、ピアさん。勘違いしないでほしい。私はあなたたちを突き放すわけじゃない」
坂本は日本のデスクから、この数ヶ月間で精緻なデータを基に翻訳し、紐で無骨に綴じた分厚い冊子をカウンターへ放り出した。ドン、と重い音がする。
「開発は終わりですが、明日からは次のフェーズ、運用の時間です。あなたたちがこの先四年半、道を見失わないための地図とマニュアルを用意しました」
「運用、保守……マニュアル……?」
「そう。仕組みはもう王国に組み込んだ。これからは開発者ではなく、運用者になってください。指針は三つ」
焦って全体を一気に掘り返せば必ず破綻する。半年ごとに西、南と、段階的にエリアを広げること。スケジュールの前倒しは現場の人間を殺します。
スラムから引き上げた、あの文字の読める青年たちを現場監督に据えて、このマニュアルを叩き込んでください。あなたたち二人の肉体に依存するワンオペを今すぐやめ、組織に仕事をさせるんです。
四年半の間、必ずどこかで土管は詰まり、計画は狂う。その際、絶対に『誰の責任か』を吊るし上げてはならない。マニュアルのフローに従い、原因となったシステムだけを淡々と修正する、クリーンで冷徹な文化を根付かせてください。
「マスターは……私たちが五年後の未来にたどり着くまでの武器を、最初から遺すつもりだったんですね……」
アレンの目から大粒の涙が溢れ、図面の青いインクをさらに滲ませた。
「ひっ、ひっひ!どこまでも合理的で、反吐が出るほどお節介な男よのぉ、マスター」
オルドがロールクッキーを噛み砕き、愉しげに耳を震わせた。
「これでお前が毎晩ここで小僧どもの尻を叩くデスマーチも終わりじゃ。こやつらは勝手に強くなる」
「ええ。仕組みが自律して回ってこそ、本物のインフラですから」
坂本は立ち上がり、アレンと、そしてピアと、順番に手のひらの皮が擦れるほどの強さで握手を交わした。
「明日からは、夜中に泣きついてくるのは禁止です。週に一度、あるいは月に一度、進捗報告と日本側で捌く商品の納品の時に、ビジネスとしてこの扉を開けてください。これからは対等な共同経営者だ。もちろん、ただの客として来てくれるのは良いですよ」
「はい……!必ず、五年後、王都の隅々にまで水を流してみせます!」
夜明け前。アレンたちは分厚い冊子を抱え、自分たちの戦場へと、迷いのない足取りで戻っていった。坂本は彼らの背中を見送ると、木製の重い扉を、パタンと静かに閉めるのだった。




