エピローグ:部屋を満たす静寂と、5年後の「アップデート」
深夜二時。蔵の重い木扉が、パタンと乾いた音を立てて開いた。かつてのようにアレンが血相を変えて飛び込んできたり、ピアが悲鳴を上げたりするような、あの嵐のような喧騒はもうどこにもない。
入ってきたのは、仕立ての良い紺色の官僚服に身を包んだ、かつてのスラムの青年だった。今や王都のインフラ運用部の中堅となった男は、無駄のない所作で一礼すると、台車から型崩れのない革製品の箱をカウンターへ並べていく。
「マスター坂本。今週分の定期納品、計五十点です。検収をお願いします」
「……ええ、ご苦労様です」
坂本は老眼鏡のブリッジを指で押し上げ、少し見えづらくなったタブレットの画面と現物を淡々と照合していく。五年の歳月は、老眼鏡をはじめ坂本の髪に白いものを増やし、指の関節を少し太くさせていた。青年はマニュアルに定められた通りの完璧なフォーマットで「定例工程報告書」を差し出し、受領印を受け取ると、再び静かに一礼して扉の向こうの夜へと消えていった。
アレンは最初から、王都のバックオフィスを統括する、滅多に前線へは出てこない組織のトップだ。現場の泥をすすることの方が異常だったのだ。坂本が遺した『Runbook(運用保守マニュアル)』は、五年という歳月をかけて組織に完全に融け込み、アレンたちが夜中に泣きついてくる必要性を、文字通りゼロにしていた。
「ひっ、ひっひ。冷たいもんじゃのぉ。あの小僧、昔はここで鼻水を垂らして泣いておったというのに、今や立派な役人の面構えじゃわい」
カウンターの特等席から、パリパリとポテトチップスを汚らしく噛み砕く音が響く。大魔導士オルドは、五年経っても何も変わらない。相変わらず特等席に入り浸り、日本のスナック菓子を指先まで油まみれにしながら、長い耳を揺らしている。
「仕組みが自律して回っている証拠ですよ。望み通りの、完璧な正常稼働です」
坂本はそう口にしながらも、冷え切ったモニターを見つめた。
画面の右下には、スマホから転送されたメッセージアプリの通知が冷たく点滅している。『今月の定期代と、スクールの教材費。一万八千円。お母さんの口座に入れといて』高校生になった娘からの連絡は、いつだって金の話だけだ。かつて必死に守ろうとした小さな手は、もう父親の部屋のドアを叩くこともない。お金という形だけの養育費を送り続けるだけの「システム化された家族」の風景が、そこにはあった。
異世界のシステムからは完璧に手が離れ、日本側のネットショップも大手通販サイトのフルフィルメントサービスとの連携で、自分が何もしなくても毎月まとまった額の金が口座に振り込まれる。完全なる自動収入。スコープに定義された平穏。だが、誰も怒鳴り込まず、誰も助けを求めてこないこの蔵は、妙にカビ臭くて、静かすぎた。オルドがチップスを噛み砕く音だけが、耳の奥にやけに大きく響く。
坂本はクシャクシャになったティッシュで鼻をすすり、ゴミ箱へ放り投げた。
「……オルドさん。暇というのは、システム屋にとっては一番の恐怖なんですよ。何もアラートが出ない画面ほど、不気味なものはない」
「贅沢な病じゃな。喉元を過ぎれば、あの泥塗れのデスマーチが恋しくなったか」
「まさか。二度と御免です」
坂本は吐き捨てるように言い、先ほど青年が置いていった、完璧にフォーマット化された「定例報告書」の束をパラパラとめくった。どれもこれも、マニュアル通り。仕様書の想定内。誰の綻びもなく、誰の怒号もない、あまりにも美しく退屈な記録の群れ。
だが、その最下層。一番最後の、羊皮紙の余白。定型フォーマットの枠線を大きくはみ出した位置に、酷く掠れた、見覚えのある汚い文字が残されているのを、坂本の目が捉えた。
『仕様書第4節にない、東区画の異常な水位上昇。泥水を1割バイパスさせて一時しのぎ中。これで合っているか?アレン』
マニュアルのどこをめくっても対応策の載っていない、五年ぶりの、泥臭い手書きの悲鳴。組織のボスとしてのプライドが、公式の報告書には書かせなかったのだろう。それでも、かつての夜を思い出して、男はここに爪痕を残したのだ。それは、洗練された役人になったアレンが、思わず剥き出しの「現場の生身」に戻ってしまった証拠だった。
坂本は、しばらくその文字を凝視していた。やがて、老眼鏡をゆっくりと外し、乾いた唇の端を持ち上げて、わずかに笑う。デスクの引き出しから古いノートを引っ張り出す。
「……やれやれ。仕組みを過信したな、アレン。五年経っても、やっぱり私がデバッグしなきゃダメか?」
口では悪態をつきながらも、坂本の指先は不思議と熱を帯びていた。銅製ポットではなく、雑にマグカップへインスタントコーヒーを淹れる。娘からの冷たい連絡も、完璧すぎて静かすぎる部屋の孤独も、全部その熱の中に放り込むようにして、男は深夜のモニターに向かって、どこか嬉しそうに激しくキーボードを叩き始めるのだった。
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次の作品も懲りずに近日に投稿予定です。
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