第47話:壁に並ぶ木札と、「ハローワーク」
王都の上下水道大工事は、恐ろしい勢いで泥をかき回しながら拡大していた。だが、インフラが肥大化すればするほど、次に悲鳴を上げるのは「ヒト」だ。現場には仕事があり、スラムには飢えた人間がいる。なのに、その間を繋ぐパイプが詰まっていた。
深夜二時。蔵の扉が開き、アレンが這いずるようにして入ってきた。ワークスペースのソファに、文字通りどさりと倒れ込む。目の下にはどす黒い隈がへばりつき、呼吸からは胃液の酸っぱい匂いが混じっていた。
「マスター……もう無理です。完全に、限界だ……」
「おやおやアレン、今度は頭痛か。胃の次は頭とは、王宮の犬も骨が折れるのぉ」
カウンターの特等席で、日本の塩分補給タブレットをカリコリと嫌な音を立てて噛み砕いていたオルドが、長い耳を揺らして邪悪に笑った。
「アレンさん、冷たい麦茶です。今度は何が詰まりました?」
坂本は動じず、タブレットの袋をソファ側へ滑らせた。
アレンはスポーツドリンク味の塩分タブレットを口に放り込んで麦茶で流し込み、かろうじて意識を繋ぎ止めた。
「人手不足です……!工事現場も配送センターも、毎日何千人も必要なのに、人が集まらない。一方でスラムには、食えなくて死にかけている平民が溢れている。間に入っている悪質な手配師どもが、労働者を囲い込んで暴利を貪り、王宮の給与をほとんどピンハネしているんです。でも、王宮には平民一人ひとりに直接仕事をあてがう窓口も、ノウハウもない……!」
「なるほど。需要と供給が、クズみたいな中間搾取で分断されているわけですか」
坂本はぬるくなった麦茶を口に含んだ。
「アレンさん。足りないのは人間じゃない。双方が安全に出会える、透明な市場です。私の世界では、国が『ハローワーク』という無料の窓口をぶっ建てて、ピンハネなしで仕事を探せるシステムがあります」
「国が直接、平民を……?」
アレンがソファから身を起こした。
「でもマスター、スラムの民の大半は文字が読めない。求人票を壁に貼ったところで、彼らにはただの汚い模様にしか見えません。結局、文字の読める手配師に泣きつく構造は変わらないのでは?」
坂本は、アレンの絶望した目をまっすぐに見つめた。
「それは思い込みです。スラムの人間が全員、等しく無知なわけがない。あの掃き溜めの中には、没落した商人のガキや、職を失った書記官みたいに、読み書きができるのに仕事がない『隠れた知識層』が確実に埋もれている。彼らをただの土掘りに回すのは、国家的なリソースのドブ捨てです」
「隠れた、知識層……」
「ええ。だから、求人ボードを『文字が読めない人向け』と『読める人向け』で、完全に二層に分けましょう」
坂本はノートを開き、インクを滲ませながら掲示板の仕様を殴り書きした。
職種は以前作ったスタンプで、シャベルや馬車の絵を描く。コインの数だけで直感的に理解させる。文字の読めない連中は、これを見て自分の身体一つで応募すればいい。
これが今回の罠だ。財務部の帳簿係や、配送センターの伝票管理といった求人は、あえて絵を一切使わず、王国語の文字と数字だけで、木札にびっしりと書く。
文字の読めない平民たちが掲示板に群がり、「おい、あの馬車は銀貨四枚だ!」と騒いでいるその横で、絵のない木札をじっと凝視し、「……これは王宮財務部、日給銀貨八枚と書いてあるな」と呟く人間が必ず現れる。その瞬間、窓口の役人がその男をその場で一本釣りする。
王宮直営の窓口で公式の紹介状を発行し、そのまま現場へ送る。これで、手配師が間に入る隙を物理的にゼロにする。
「求人票そのものを、文字が読める人材の『自動選考システム』にするというのですか……!」
アレンの肌に、粟が立った。何年もかけて教育するのではない。今この瞬間、泥の底に沈んでいる原石を、コストゼロで引き上げる仕掛け。
「ひっ、ひっひ!相変わらずお前のやることは、美しくて冷徹じゃのぉ」
オルドが塩分タブレットを噛み砕きながら、目を細めた。
「文字が読めるという才能を鍵にして、自ら宝箱を開けさせるか。手配師どもは、自分たちの囲いからなぜ優秀な頭脳が消えていくのか分からぬまま、干からびるわけだ」
坂本は冷めた笑みを浮かべた。
「適材適所。市場のデバッグです」
アレンはもう、疲れた顔をしていなかった。ノートをひったくるように抱え、夜明け前の蔵から王宮へと走り去っていった。
翌朝、午前八時。王都市民課の外壁に、突貫工事で巨大な木製の掲示板が設置された。津波のように押し寄せるスラムの男たち。彼らはシャベルや馬車のマークがついた木札に群がり、手配師のいない破格の高給に、獣のような歓声を上げていた。
その喧騒から、わずかに離れた掲示板の端。ボロボロの、継ぎはぎだらけの服を着た青年が立ち止まっていた。彼の前にある木札には、絵が一切ない。ただ、整然とした王国語の文字だけが並んでいる。周囲の男たちが「なんだそのゴミは」と笑い飛ばす中、青年の唇がかすかに震えた。
「……王宮財務部、帳簿決済の補助。……日給、銀貨八枚。……本当に、書いてある」
青年が震える手で木札を抜き取った瞬間、窓口の役人が、鋭い目でニヤリと笑った。
「おめでとう。お前が最初の合格者だ。奥へ進め。アレン財務官がお待ちだ」
青年が、驚きに目を見開きながらも、泥のついた足で王宮の門へと歩き出す。特権階級ではなく、泥の中から実力でもぎ取った、平民の官僚が誕生した瞬間だった。
午前六時、日本。業務を終えた坂本は、引き出しの奥から、かつて自分が異業種へ転職活動をしていた頃の、厚生労働省の古いパンフレットを引っ張り出していた。ボロボロになった紙の端を見つめていると、当時の胃が痛む記憶が蘇る。
「全員を一括りにしないこと。どんな環境であっても、隠れた才能を見落とさないのが、良い管理職の条件だからね」
坂本は小さく呟いた。窓から差し込む朝の光がやけに強く、坂本は思わず目を細めた。首の痛みを覚えながら、男は冷え切った布団に身体を沈めた。




