第44話:砕け散る馬車と、「ロイド・コーヒーパッチ」
JIS規格による標準化、ロジスティクスの集約、通行区分の統制。現代日本の知恵は、王都の上下水道大工事を限界以上の速度で進める大推進力となっていた。しかし、システムの稼働率が百パーセントに近づき、トラフィックが限界まで過密化したとき、どれほど完璧なルールを敷こうとも確率論的に絶対に防げない「最悪のエラー」が現場を襲う。
深夜二時。蔵の扉が開くと同時に、アレンが青ざめた顔で自分の胃のあたりをきつく押さえながら転がり込んできた。
「マスター……お知恵を、いや、我が国の救済策をください……!胃が、胃が破れるかと思いました……」
「おやおや、アレン。今度は何のシステムダウンじゃ?お主がそうやって胃を押さえて来る夜は、決まって現場で血が流れているのぉ」
カウンターの端の特等席で、ふかふかの座布団にしがみついていた大魔導士オルドが、日本のビスケットをサクサクと軽い音を立てて齧りながら、長い耳を揺らして面白そうにアレンを見やった。
「アレンさん、おしぼりをどうぞ。何があったんですか」
坂本はいつものトーンで温かいおしぼりを差し出し、銅製ポットから、淹れたての珈琲をカップに注いだ。アレンはそれを震える指で掴んで一口啜り、熱い液体を胃に送り込むと、悲痛な面持ちで泥にまみれた報告書を開いた。
「マスターの教えてくれたルールのおかげで、馬車は皆、寸分の狂いもなく左側通行を守っていました。……ですが昨日、東区画の急勾配の坂道で、資材を限界まで積んだ運送ギルドの馬車が、車軸の金属疲労で『横転』したんです。対向車線に飛び出し、建築ギルドの馬車を巻き込んで、高価な魔導管や資材が粉々に砕け散りました……!御者も大腿骨を折る大怪我です」
「……それで、現場の処理はどうなったのですか」
坂本が静かに問いかけると、アレンは脂汗の浮かんだ頭を抱えた。
「最悪です!運送ギルドは『車軸が折れたのは不可抗力だ。線を越えたのは悪かったが、建築ギルドの積み方が悪くて避けられなかったんだ』と主張し、建築ギルドは『お前の馬車が突っ込んできたせいで資材が全損したんだ、全額弁済しろ!』と激怒。互いに泥沼の裁判が始まり、今、東区画のすべての物流と工事が完全にストップしています……!」
どれほど厳格な仕様書を作っても、物理的な摩耗やヒューマンエラーによる事故の確率をゼロにすることは不可能だ。そして一度事故が起きれば、その巨大な損害コストの押し付け合いでシステム全体が停止する。これこそが、リスクマネジメントなき近代化の落とし穴だった。
坂本はぬるくなったコーヒーを口に含み、クシャクシャのティッシュで口を拭う。
「アレンさん。どれだけ優れたルールを作っても、ミスや事故の発生率をゼロにすることはできません。大事なのは、事故を無くすことではなく、事故が起きてしまったときの【損失のリスクマネジメント】です。私のいた世界には、こういう不測の事態で組織や個人が破産しないための、『保険』という偉大なシステムがあります」
「ホケン……?事故の損害を、王宮がすべて肩代わりして支払うのですか?」
アレンがビスケットを持ったまま、不思議そうな顔で首をかしげた。
「いいえ。国がお金を出すのではありません。同じリスクを抱えるギルド全員で、少しずつお金を出し合うんです。日本の保険の歴史も、大昔のイギリスの『コーヒーハウス』に集まった商人たちの、船の貿易から始まりました」
坂本は、裏が白いチラシの切れ端に、ボールペンで現代の相互扶助のロジックを異世界用にスケールダウンした図解を殴り書いていった。
「一回の貿易で、一隻の船が沈没したら、その商人の会社は一発で倒産します。ですが、百人の商人があらかじめ『数枚の銀貨』を一つの箱にプールしておけばどうでしょう。誰かの船が一隻沈没したとき、その箱に溜まった全員の銀貨から全額を弁済する。これなら、損害を百分の一に薄めることができ、誰も倒産しません」
「損害を……全員で薄めて共有する……!?」
アレンの目が驚愕に見開かれた。
「ええ。アレンさんの財務部が主導して、『王立共済保険』の仕様書を書きましょう。明日から以下の三つの暫定パッチを東区画に適用してください」
一つ目、強制加入保険の導入。工事に関わるすべての馬車、ギルドから、毎月一律でごく少額の共済金を王宮の金庫に強制的に集めます。
二つ目、過失割合の概念。事故が起きた際、どちらがどれだけ悪いかを現場の痕跡から客観的に調査する専門官『アジャスター』を財務部に置きます。「車軸が折れた側が八割悪いが、避けられたのにブレーキが遅れた側も二割悪い」といった基準をシステム的に裁定し、泥沼の裁判を数時間で終わらせます。
三つ目、労災の補償。今回のように大怪我をした御者や職人の治療費、そして働けない期間の生活費も、このプール金から支払います。これにより、労働者は「怪我をしたら人生が終わる」という恐怖から解放され、リスクの高いインフラ工事に安心して専念できるようになります。
「事故が起きることを前提として、起きても『誰も死なない、誰も破産しない仕組み』を作る……!これこそ、真の国家のセーフティネットじゃないですか……!」
アレンは、坂本が提示した金融の智慧に、頭の先からつま先まで震えるほどの鳥肌を立てていた。
「ひっ、ひっひ!運命の不条理すらも、全員の薄い銀貨でへし折るか」
特等席のオルドが、ビスケットを珈琲にちょんと浸して口に運びながら、狂おしいほど愉しそうに長い耳を揺らした。
「不運の直撃を食らえば一撃で死ぬ平民どもを、巨大な一つの『群れ』として同調させ、全体の生存率を跳ね上げる。これまた悪魔的なまでに合理的な術式じゃわい、マスター」
「ええ。ただし、これを最初から国中に広げるのは不可能です」
坂本はいつものように手堅いプロセスを指示した。
「まずは『上下水道工事に関わる馬車と職人』だけに限定してテスト運用をしてください。現場の親方たちを集めて、説明会を開くんです」
「わかりました……!毎月、全員で少しずつ出し合う『共済』、今すぐ東区画の親方たちを説得します!」
アレンの瞳には、現場を救うための確固たる光が戻っていた。彼はコーヒーを飲み干すと、ノートの仕様書をきつく抱きしめ、夜明けの王宮へと駆け戻っていった。
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、実家のデスクの上に置いてある自動車保険の更新通知と、古い特約のパンフレットを眺めていた。異世界にセーフティネットを敷いておきながら、坂本自身が乗っている型落ちの軽トラは、対物無制限のロードサービス付きできっちり口座から引かれている。誰がいつ事故を起こすか分からないからこそ、見知らぬ誰かと薄くリスクを分け合う。この冷徹で温かい数字の傘が、日本の道路を今日も支えているのだ。
「一撃死のない世界ってのは、こういう紙切れ一枚の契約から始まってるんだよな……」
坂本は静かにそう呟くと、ペンを置いて冷え切った缶コーヒーのプルタブを引いた。窓の外からは、新聞配達のバイクがカブ特有のせわしない排気音を響かせて遠ざかっていく。その規則正しい音が、異世界の喧騒を塗りつぶし、味気ないほど平和な現実へと坂本を連れ戻すのだった。




