第43話:読めないマニュアルと、「スタンプパッチ」
JIS規格、ロジスティクス、周波数管理。現代日本のロジックは、王国のOSを着実にアップデートしていた。しかし、インフラの規模が拡大すればするほど、最後には人間の「リテラシー」という最も強固で生々しい壁が、システム全体の稼働を致命的に阻害し始める。
深夜二時。蔵のワークスペースのデスクに、ごんっ、と派手な音を立てて額をぶつけ、ピアが半泣きで絶望していた。
「マスター……もうダメ、完全に詰んだわ……!ネジの寸法表も、伝票も、無線通信のマニュアルも、完璧に作って現場に配ったのよ!?なのに……職長や御者の半分以上が【文字が読めない】から、全部ただの敷物か、焚き付けの紙屑にされてるのよ……っ!」
「文字の壁か」
カウンターの端で、日本のコーンポタージュスープにクラッカーを浸してサクサクと食べていた大魔導士オルドが、長い耳を小さく震わせた。
「平民の識字率など、そんなものじゃ。文字が読めるのは聖職者か役人、あるいは上位の商人だけだからな」
アレンもまた、スープを力なく啜りながら深く頷いた。額の脂汗を袖で拭いながら、声を潜める。
「しかもマスター、これが一番厄介なのですが……王宮の保守派貴族たちが『平民に知恵をつけるな』『文字を覚えれば反乱の火種になる』と激しく警戒しています。馬鹿正直に学校なんて作ろうものなら、政治的な反乱が起きてインフラ工事そのものが差し止められますよ」
文字が読めない現場。しかし、教育を始めれば特権階級の反発を招く。リテラシーの低さがインフラの進捗を殺し、リテラシーを上げようとすれば政治が殺しにくるという、最悪のデッドロック。
だが、アレンの話を聞いた坂本は、動じるどころか、フッと胃の奥が冷えるような皮肉な笑みを浮かべた。ぬるくなった麦茶を喉に流し込む。
「……やはり、そうなりますか」
「マスター……?知っていたのですか?」
「ええ。以前、国王陛下から直々にスラムのことを相談された時から、このリテラシーの壁に対するシステム改修は考えていました。ただ、貴族たちがどのタイミングで迎撃してくるかの動向データが不十分だったため、あえて伏せていたんです。ですが、敵の出方が分かったのなら話は別です。学校を作る必要はありません」
「学校を作らない……!?じゃあ、どうやってマニュアルを読ませるのよ!?」
ピアが涙目で見上げてくる。坂本は、日本の工事現場が誇る「視覚デザイン」のロジックを切り出した。
「文字が読めないなら、直感的に一秒で意味がわかる【図記号】をすべての書類に使いましょう。日本の道路標識や、非常口のマークと同じです。ネジを締める場所には『スパナの絵』を、給水馬車のルートには『水滴と矢印の絵』を描く。これなら子供でも理解できます」
「図記号……文字の代わりに、絵で指示を出すのね!?」
ピアの目が一瞬輝いたが、アレンがすぐに遮った。
「待ってくださいマスター。その複雑な絵を、すべての現場のチェックシートや仕様書に、書記官たちが一枚一枚手書きするのですか?それこそ人員と時間がいくらあっても足りない!」
「手書きする必要はありません。これを見てください」
坂本は日本から持ってきていた、事務用の日付スタンプと、お馴染みの赤いインクのシャチハタを取り出し、白紙のノートの上にコト、と置いた。そして――ポン。
一瞬。わずか〇・一秒。ノートの上には、一ミリの狂いもなくクッキリと、美しい文字と「確認済」のマークが印字された。
「な……ッ!?なんじゃあこれはぁぁぁっ!?」
アレンとピアが、衝撃のあまり椅子から転げ落ちそうになりながらノートを覗き込んだ。
「魔法じゃない……一瞬で、完璧に均質な形が描けた……!?どんな錬金術よ!?」
「これは木やゴムの型にインクをつけて押し付けているだけです。私の世界には大昔から、同じ図形や文字を爆速で大量に複製する『印刷』という技術があります。ピアさん、建築ギルドの木工職人に頼んで、スパナの形や矢印の形を、左右反転させて精密に彫った【木製のスタンプ】を大量に作らせてください。それを現場の書類にポンポンと押していけば、手書きの百倍のスピードでアイコン付きの仕様書が量産できます」
「これなら……一瞬で絵入りのマニュアルが作れる……!」
ピアが震える手でシャチハタを握りしめる。
「そしてアレンさん。ここからが保守派貴族の目を盗む、本当のシステムパッチ――【ステルス教育】の罠です」
坂本は冷徹な目で、スタンプを押した図面を指さした。
「木判スタンプを作る際、スパナの絵のすぐ横に、あえて小さく『工具』という文字も一緒に彫り込んで、並記しておいてください。現場の職人たちは、給与アップがかかったチェックシートの『絵』を毎日必死に見るうちに、その横にある『文字の形』を、勉強しているという自覚すらなく自然と脳にインプットしていきます。『この絵の横にあるこの模様は、工具という意味だ』とね」
「あ……!」
アレンが息を呑んだ。
「貴族たちには、ただの『現場を効率化するための業務命令のハンコ』にしか見えません。彼らが気づいた時には、王都中の何千人もの平民が、勝手に文字を読めるようになっています。教育という言葉を使わずに、実務のフローの中で民の知性を底上げする。これなら政治的反乱は一切起きません」
「ひっ、ひっひ!恐ろしい男じゃな、マスター!」
特等席のオルドが、スープに浸したクラッカーを小気味よく咀嚼しながら、狂おしいほど愉しそうに長い耳を震わせた。
「学ぶ気のない民にはゲームで釣って自然に学ばせ、警戒する貴族には『ただの作業能率の向上です』と言い訳の盾を与える。誰も傷つけず、しかし確実に世界の構造を裏から書き換える、極上の暗黒魔術ではないか!」
「文字の代わりに絵を使い、それを押す……。これなら文字が書けない職長でも仕様書を量産できるし、現場も一目で動ける。おまけに未来の教育まで内包しているなんて……!」
ピアとアレンは、底知れないシステム思考の深さに、全身に鳥肌を立てて立ち尽くしていた。
「まずはユーザーテストです」
坂本は手堅いアジャイル開発のプロセスを指示した。
「明日の朝、ピアさん自身が一個だけ『スパナの絵の木判』を手彫りして、文字の読めない職長に見せてみてください。意味が通じるかどうかの検証から始めましょう」
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、引き出しの奥から、日本にいた頃に娘が使っていた、キャラクターの古いスタンプラリーの台帳を愛おしそうに取り出し、眺めていた。ポン、と押されるだけで、子供たちが大喜びで次へ次へと走り出す、小さなインセンティブのスタンプ。
「文字と量産(印刷)の壁。これを同時に解決してこそ、この巨大なインフラプロジェクトの完成が見えてくるからね」
坂本はそう静かに呟くと、ノートパソコンの画面をパタンと閉じ、冷えたお茶を喉に流し込んだ。窓の外からは、近所の古い軽トラがパタパタと頼りないエンジン音を立てて走り去る音が聞こえ、世界の狭さを嫌でも思い出させるのだった。




