第42話:偏屈な老魔導士と、空(魔力)の「電波法」
東区画で始まった通信のチャンネル分割の実験は、現場の混乱を劇的に解消しつつあった。しかし、目に見えない「空間の割り当て」という概念は、古くから自然の魔力をそのまま扱ってきた保守的な専門家たちにとって、受け入れがたい「既得権益の侵害」に映るものだった。
深夜二時。いつものトントンという正確なノックではない。蔵の周囲の空気がピリピリと震え、肌を刺すような濃厚な魔力のプレッシャーと共に、分厚い木製ドアが重々しく押し開けられた。
ギィィィ……。
「マスター、すまぬな。ピアたちが進めておるチャンネル分けの件じゃが、魔導院の頭の硬い老いぼれたちが『伝統に反する』『平民が勝手に空を区切るな』とへそを曲げてな。へそ曲がりの元締めを、ワシが半分力づくで引っ張ってきたわい」
現れたのは大魔導士オルド。そして彼が後ろから強引に蔵へと引きずり込んできたのは、床に届くほどの長い白髭を蓄え、豪華な魔導衣に身を包んだ気難しそうな老人――王立魔導院の最高権力者、ゼファス院長だった。
「ふん!異界の平民め、ここが噂の不届きな蔵か!」
ゼファス院長は中に入るや否や、長い髭を震わせて坂本を睨みつけ、杖を床にドスンと突いた。
「魔力とは大自然の尊き息吹であり、神聖なるものじゃ!それを『チャンネル』などという無粋な数字の枠でパチパチと区切り、家畜のように管理するなど、魔導への冒涜!断じて認めんぞ!」
「なるほど、専門家特有の縄張り意識の反発ですね」
坂本は眉一つ動かさず、銅製コーヒードリップポットの前に立つと、静かに火をかけた。偏屈な専門家を動かすには、言葉の前に、圧倒的な「規格化の精度」を見せつけるのが一番の近道だ。
オルドの好みに完全に合わせてある浅煎りの『特製ブレンド(オルドⅠ)』の豆を精密に量り、挽いた。そして、寸分の狂いもない九十度のお湯を、糸のような細さで正確にコントロールしながら粉へと落としていく。じゅわあぁ……と、ふくよかに膨らむ珈琲の泡。次の瞬間、蔵の中に、異世界には存在しない最高峰の洗練された焙煎香が、濃密に立ち上った。
「……っ!?な、なんじゃ、この深く澄んだ香りは……」
怒り狂っていたゼファスが、思わず言葉を失い、鼻をぴくりと動かした。
「ゼファス院長。まずは、温かいコーヒーでも飲んで落ち着いてください」
坂本は、完全に均一な漆黒の液体をマグカップに注ぎ、老魔導士の前に静かに差し出した。ゼファスは不審そうに眉をひそめながらも、立ち上る香りの誘惑に勝てず、カップを口元へ運んだ。じわり、と一口、啜る。
「――っ!!!!」
老院長の目が、限界まで見開かれた。
「な、なんという雑味のなさ……!苦味、酸味、コクのすべてが、まるで精緻な魔法陣のように一分の狂いもなく計算され、完全に統制されておる……!これほどの『完璧な一杯』を、平民がこれほど容易く錬金するだと……!?」
「ひっ、ひっひ!そうじゃろうゼファス。マスターの成すことは、すべてこのように狂いがないのじゃよ」
特等席のオルドが、待ってましたとばかりに自分のコーヒーを啜り、日本のポテトチップスをパリリと小気味よく囓った。
坂本は、ゼファスにもポテトチップスの袋を差し出しながら、本質を冷徹に切り出した。
「ゼファス院長。私が提案しているのは、魔導の規制や否定ではありません。【国家の共有財産の最適化】です。今、王都中でお手製の魔導板が乱立し、混線した結果、本当に必要な救急連絡や給水インフラの連絡が一切届いていません。これは、あなた方魔導院が長年、空間の波長を『自由という名の独占』にし、整理してこなかったツケです」
「独占だと……!?我々はただ、自然のままに……」
「自然のままでは、システムはいつか破綻します」
坂本はノートを広げ、日本が国策として定めている【電波法】の歴史の図を描き始めた。
「私の世界でも、テレビ、ラジオ、携帯電話、警察、すべてが限られた空の帯域を分け合っています。もし誰かがルールを無視して勝手に強い電波を出したら、法律によって厳格に処罰されます。なぜなら、空は全員の共有インフラだからです。……ですが院長、私はあなた方の高度な魔法を一般平民に開放せよ、と言っているのではありません。むしろ逆です」
「逆、だと……?」
ゼファスが髭をなでる手が止まる。
「ええ。誰もが使える安価なインフラ用には、扱いやすい低い周波数帯を割り当てる。そして、あなた方魔導院が誇る最高峰の超高位魔法や、国家防衛の結界術といった領域には、平民には絶対に干渉できない最高の高周波帯を割り振るのです。そこには国が【特許】を認め、法によって強力に保護・特権化します。これこそが、私の世界でいう『電波法』の思想です」
「我々の魔導を……『最高ランクの国家規格』として定義し、それ以外を一般に開放する……」
伝統とプライドに固執していたゼファス院長は、坂本の冷徹かつ、魔導院の権威を極めて合理的に保護するシステム思考に、全身に鳥肌を立てていた。
「うむ、ただ縛るのではないわけじゃな……」
ゼファスは、手元にあるコーヒーをもう一口啜った。徹底的に温度と豆の量を規格化されたからこそ到達できる、至高の味。このコーヒーそのものが、坂本の思想の、何よりの証明だった。
「……うむ。良い。空間の波長が混ざり合って、インフラが止まるのは確かに本意ではない。魔導院が、王国内のすべての通信の『周波数帯の監視役』を担い、特権を独占するというのなら……そのチャンネル分けとやら、考えてやらんこともないぞ」
ゼファス院長は、最高権力者としてのプライドを完璧に立てられたことに深く満足し、嬉しそうに髭を揺らしながら、コーヒーの最後の一滴までを飲み干した。
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、パソコンの画面で総務省の電波利用に関するWEBページを静かに眺めていた。
「偏屈な専門家を納得させるには、相手のプライドを最高ランクとしてシステムに組み込み、こちらのルールの監視役に任命して巻き込む。組織を動かす時の、基本のマネジメントですね」
国中の通信が一瞬で直るわけではない。しかし蔵を出たゼファス院長は、魔導院へ戻るや否や、徹夜で「王国内魔力波長・暫定帯域割当令」の草案を殴り書きしていた。老いた魔導士たちが、今や「自分たちの特権を守るため」に、国を挙げた通信インフラの法整備に向けて猛スピードで動き出そうとしていた。
坂本は、スマートフォンの画面を閉じ、パチパチと窓の隙間から吹き込む冷たい朝風の音を聞きながら、静かに、深い眠りにつくのだった。どこか遠くで、夜明けの冷えたアスファルトを走る車の走行音が、微かに響いていた。




