第40話:重すぎる金貨の袋と、「小切手(約束手形)」
ロジスティクスの最適化だの、左側通行の義務化だの、そんな小理屈で東区画の街道は確かに回り始めた。目に見えて資材や水が流れる速度が上がった。だが、物理的な移動速度が限界まで跳ね上がったとき、次に悲鳴を上げたのは、それらの泥臭い取引を裏で支える「金」の現場だった。
深夜二時。蔵の床板が、地響きのような嫌な音を立てて軋んだ。ズズズ、と重いものが擦れる音のあと、ドスンと鈍い衝撃が足元に伝わる。
「マ、マスター……!もう限界です、財務部も騎士団も、文字通りこの『重さ』で圧死しかけています……!」
息を切らせて床に崩れ落ちたのはアレンとピアだ。二人がかりで抱え込んできたのは、ガラムの爺さんに特注で作らせたという無骨な鉄の箱だった。アレンの指先は、鉄の取っ手を強く握りしめ続けていたせいで血の気が引き、真っ白に強張っていた。ガチャリと鍵を開けると、箱の口から数千枚の純金貨がジャラジャラと汚い音を立てて溢れ出た。部屋の安っぽい蛍光灯の光を浴びて、鈍くギラつく黄金の塊。それは見るだけで肩が凝るほど重苦しかった。
「ひっ、ひっひ!相変わらず、下俗な金属の塊をこれほど溜め込んで、ご苦労なことじゃな」
カウンターの端で、淹れたてのコーヒーの湯気を顔に浴びていた大魔導士オルドが、長い耳を揺らして意地悪く笑った。
「アレンさん、ピアさん、ひとまず座ってください。何ですか、この山は」
坂本はノートパソコンのキーボードから手を離し、低めの声で問いかけた。アレンはカウンターにしがみつき、寝不足の涙目で訴えてくる。
「マスターに言われた通りに物流を動かしたら、現場の稼働がこれまでの数倍のスピードで回り始めました。……ですが!取引の回数が増えたせいで、毎日このクソ重い金貨の箱を、王宮と現場の間で何往復も運ぶ羽目になったんです!警備の騎士たちの腰は死にかけ、現場で一枚一枚数え間違いがないか確認する作業のせいで、せっかく縮めた時間が全部消えていく!」
要するに、経済の流通スピードに、金属現物を手渡すという前時代的な決済のリードタイムが追いついていない。現物通貨という物質の物理的な重みが、巨大なブレーキになってシステムを緊急停止させようとしていた。
坂本は表計算ソフトで組まれた王宮の財務諸表のデータから目を離し、静かに首を振った。脂ぎった額をクシャクシャのティッシュで拭う。
「アレンさん。そもそも、お金の本質を勘違いしています。その金属の塊そのものに価値があるんじゃない。国がその価値を保証するという【信用のデータ】です。現物を毎回、命がけで運ぶのは、ビジネスの足を引っ張る最大の矛盾ですよ」
「信用の、データ……?金属そのものの価値ではない……?」
アレンが呆然と口を開ける。坂本は台所の冷蔵庫から、スーパーの安売りで買いだめしておいたどら焼きを取り出し、コーヒーと一緒に二人の前へ乱暴に置いた。
「まずは糖分でも摂ってください。私の世界じゃ、数百万、数億という巨大な取引に、現金の束をいちいちカバンに詰めて持ち歩くようなリスクは冒さない。代わりに、こういう『ただの紙切れ一枚』を使います」
日本から持ってきていた市販の複写式領収書の手帳を、アレンの前にコトと置く。
「紙切れ……?マスター、まさか、この薄くて軽い紙が、金貨何千枚もの代わりになるというのですか!?」
ピアがどら焼きをバクリと齧り、口の端につぶあんをつけながら叫んだ。あんこの濃厚な甘みに一瞬目を丸くしたが、その顔には不信感が満ちていた。
「ええ。『小切手』や『約束手形』という決済システムです」
裏が白いチラシの切れ端に、現代の金融ロジックを異世界用にスケールダウンした仕様を、ボールペンで殴り書きしていく。
一つ目、王宮預かり証の即時発行。各ギルドや大商人は、手持ちの重い金貨を、最も安全な王宮の金庫にすべて預けてしまう。王宮は「確かに金貨◯枚を預かった」という、偽造防止魔法のサインを施した紙切れを各ギルドに発行する。
二つ目、小切手の運用。建築ギルドが材料を買う際、金貨の箱を運ぶのをやめる。王宮から支給された専用の手帳(用紙)に「金貨百枚」と金額を書き、ギルド長の署名をして相手に渡す。この紙を王宮財務部に持っていけば、金貨百枚と交換できる仕組みで、これが小切手だ。
三つ目、帳簿上の相殺。小切手をもらった商人は、わざわざ王宮へ行って金貨に引き換える必要すらなくなる。自分の王宮の口座台帳に「金貨百枚分」の数字を移し替えるだけで、決済は一瞬で終わる。つまり、金貨は一歩も王宮の金庫から動かない。
「な、何だと……ッ!?」
アレンは手元のどら焼きを落としそうになりながら、勢いよく立ち上がった。
「金貨を動かさず、我々財務部の帳簿の『数字』を書き換えるだけで、すべての取引が終わる……!?これなら、道中で盗賊に襲われるリスクも、重い箱を運ぶ人員も、現金を数える時間も、すべてが『ゼロ』になるじゃないですか……!」
「ひっ、ひっひ!ついに現物の呪縛すらも、ただの『情報の術式』で書き換えおったな!」
特等席のオルドが、珈琲をズズッと下品に啜りながら、興奮で長い耳を激しく震わせた。
「金そのものに価値があるのではない、国が『ある』と言った数字を信じるという、最大規模の集団催眠……!マスター、お主の国の祖先は、とんでもない悪魔のシステムを思いついたものじゃな」
「悪魔のシステムではなく、ただの金融インフラですよ」
坂本は複写式領収書のレイアウトを参考に、異世界初となる約束手形のフォーマット仕様書をアレンに手渡した。
「ただしアレンさん、もちろん明日から国中の商人が、この紙切れを信用して受け入れるわけじゃない。信用の構築には時間がかかる。だから、まずは最も王宮との信頼が厚い『国直轄の上下水道工事ギルド』の内部決済だけで、この実証実験をスタートさせてください」
「わかりました……!まずは東区画の身内から、この『紙の決済』を叩き込みます!」
アレンは激務の疲労を完全に忘れ、その目は異世界の経済構造を根本からひっくり返す金融革命の興奮で、激しくギラギラと輝いていた。彼はどら焼きを丸ごと口に放り込むと、仕様書を胸に抱いて、徹夜で口座台帳を作るべく王宮へと飛び出していった。
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、スマートフォンの画面を開き、オンライン銀行で、娘の銀行口座へ毎月の養育費を振り込む明細を眺めていた。
ボタン一つ、わずか一秒で完了する決済。現金を一歩も動かさず、数字のデータだけが電子の海を渡っていく現代日本の日常。
「現金を持ち歩かない暮らしの裏には、何百年もの信用の歴史があるんだよな……」
坂本は静かにそう呟くと、ノートパソコンの画面をパタンと閉じ、冷えたお茶を喉に流し込んだ。窓の外からは、近所の古い軽トラがパタパタと頼りないエンジン音を立てて走り去る音が聞こえ、世界の狭さを嫌でも思い出させるのだった。




