第39話:激突する馬車と、命を分ける「通行区分」
東区画を実験場とした「共同配送」の実証実験。それは、無駄な馬車の数を劇的に減らす革新的な一歩になるはずだった。しかし、どれほど荷物の流れをデータ化し、効率的なシステムを組もうとも、それを使う人間の「動き」そのものが制御されていなければ、現場は容易に悲劇の舞台へと変わる。
深夜二時。蔵の扉が静かに開いたが、入ってきたアレンの足取りは、これまでにないほど重く、その肩は落胆から目に見えて震えていた。手には、泥と馬の脂にまみれた報告書が固く握られている。
「マスター……、東区画での混載便の実証実験ですが、初日から最悪の形で頓挫しました……」
「おやおや、昨日あれほど威勢よく稟議書を書いておきながら、もうお通夜か?頼りない男じゃて」
カウンターの特等席で、日本のウーロン茶をグラスに注ぎ、ストローで涼しげに飲んでいた大魔導士オルドが、意地悪く長い耳の先をぴくりと跳ね上げた。
「アレンさん、何があったのですか」
坂本は動じず、脂汗で汚れたアレンの前に新しいおしぼりを差し出した。
「馬車を集約し、城門前に集配拠点を作ったのは完璧で、積載効率は跳ね上がったんです。……ですが、いざ街道に出た瞬間、資材を限界まで積んだ重いドワーフの馬車と、スピードを出して走る騎士団の給水馬車が、街道の真ん中で正面衝突を起こしました。互いの御者たちが『お前が道を譲れ!』『いや、俺の荷物の方が重要だ!』と武器を抜いての大喧嘩に発展し、結局半日以上、道が完全に塞がってしまったんです……!」
これまでは馬車の絶対数が少なかったから、なんとなくで回避できていた。しかし、ロジスティクスによって効率化され、過密化したトラフィックの中では、「なんとなく」の運用は致命的な問題を引き起こす。
坂本は、台所から電子レンジからチンと小気味よい音が鳴るのを聞くと、冷凍庫に買いだめしておいた熱々のたこ焼きのパックを取り出し、冷たいウーロン茶と共にアレンの前に置いた。
「アレンさん。まずはこれを食べて、お腹を満たして、心を落ち着かせてください。原因は、荷物の量ではなく『動線』にあります」
「こ、これは……丸くて熱い、不思議な食べ物ですね……。……はぐっ、熱っ!?ど、泥のように濃厚な茶色いソースの中に、信じられないほど弾力のある、海の魔獣の肉が隠されている……!」
アレンがハフハフと口を動かしながら、たこ焼きの美味さに一瞬だけ正気を取り戻す。ソースが口元について汚らしいが、気にする余裕もないらしい。
「たこ焼きです。アレンさん、質問ですが……王国には、馬車が右側を走るか、左側を走るかの明確な【交通ルール】が存在しないんですね?」
「え……?右か、左か、ですか?」
アレンは口の周りにソースをつけたまま、きょとんとした。
「そんなもの、あるわけがありません。基本的には『空いている側を走る』、あるいは『身分の高い高位貴族や、緊急の騎士団の馬車が来たら、下級の者は路肩に避ける』というのが、この世界の当たり前の常識ですが……」
「それでは渋滞はおろか、大事故が多発して当然です」
坂本はノートを開くと、ボールペンで一本のまっすぐな道路の図を引き、その真ん中に一本の線を引いた。
「私の世界では、車や馬車といった移動体は、すべて『左側通行』と法律で厳格に決まっています。右利きが多い御者が、右手で鞭を振るったときに反対車線の馬車に当てないため、あるいは騎士がすれ違いざまに盾と武器を構えやすいようにするためなど、理由は諸説ありますが、最も重要な本質はそこではありません。【全員が、例外なく同じルールに従うことで、正面衝突の確率を物理的に『ゼロ』にする】という点です」
「左側通行……。ただ走る側を一方に固定するだけで、衝突の因果そのものが消滅する……!?」
アレンの目が、たこ焼きの衝撃以上に丸くなった。
「その通りです。アレンさん、実証実験のデータに、以下の『交通法規』を追加してください」
一つ目、『左側通行』の義務化。実験区画である東区画の街道に限り、あらゆる馬車、徒歩の者も含めて『進行方向に向かって必ず左側を走る』ことを絶対のルールとします。貴族の身分も、ここでは一切関係ありません。
二つ目、中央線の白線。ピアさんの建築ギルドに頼んで、街道のちょうど真ん中に、白い塗料か目立つ石の配置で『線』を引いてください。視覚的に『これを超えて右側に出てはいけない』という境界線を分からせるためです。
三つ目、追い越し禁止のバッファ。給水馬車などの緊急車両が、前の遅い資材馬車を追い越す際は、どの場所で、どういう合図を出して右側車線へ一時的に出るべきか、手順を完全にマニュアル化してください。
「ひっ、ひっひ!相変わらず、マスターの描く図面には無駄がないのぉ」
特等席のオルドが、残ったたこ焼きを魔法の手で横からひったくり、口に放り込みながら愉しそうに長い耳を揺らした。
「ただ右か左かを決めるだけで、何百人もの御者の意識を縛り、事故を未然に防ぐ。目に見えぬ強固な『結界』を道に張るようなものじゃわい」
「目に見えない規格、すなわち『法』の力です。アレンさん、まずは実験区画の入り口に、大きく【左側を走れ】と、文字の読めない御者のために馬車のイラストを大きく描いた標識を立ててください。ルールを守らない者は、東区画への出入りを一切禁止にする、と」
「ただ右か左かを決めるだけ……。これなら、新たな予算を組まなくても、明日から現場に適用できる……!」
アレンは目からボロボロと鱗を落とし、坂本が描いた中央線の図面を食い入るように見つめた。
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、実家の窓から、すぐ前の道路を何事もなく、滑るようにすれ違っていく軽自動車やトラックたちを眺めていた。
国全体の法律が一晩で変わるわけではない。しかし王宮財務部トップのアレンは、徹夜で作成した「東区画・馬車通行区分統制令」の羊皮紙を手に、朝日が昇ると同時に現場へと急行していた。城門前に立つ警備兵たちを即席の「交通整理員」として配置し、戸惑う御者たちを「左だ!左の車線を走れ!」と強引に誘導し始める。
昨日まで怒号と流血の喧嘩が起きていた街道に、一本の「見えないルール」が染み込んでいく。坂本は冷え切った指先を擦り合わせながら、「当たり前に安全にすれ違えるって、法治国家の最大のメリットなんだよな」と静かに呟き、奥座敷の布団へ潜り込むのだった。外では、ゴミを漁るカラスの不快な鳴き声が、低く響いていた。




