第38話:立ち往生する馬車と、「ロジスティクス」
午前二時。新調した銅製ポットから、細く落とした湯がコーヒーの粉を静かに膨らませていく。蔵の冷えた空気に、深くて苦い香りがじわりと染み込んでいく時間。これが一日のうちで唯一、坂本の呼吸が深くなる瞬間だった。
だが、その静寂は不躾な音を立てて叩き割られた。ドンドンドンドン!と、扉の木肌が悲鳴を上げる。
「マスター!助けてください、もう王宮財務部だけでは処理しきれない大障害が発生しました!」
滑り込んできたアレンは、いつも以上に髪をメチャクチャに振り乱し、高級なはずの官服のボタンを掛け違えたままだった。額にはべっとりと脂汗が浮き、目は寝不足で赤く濁っている。
「おいおい、夜中にそんな大声を出すな。極上のコーヒーの香りが台無しになるじゃろ」
カウンターの端の特等席で、ふかふかの座布団にしがみついていた大魔導士オルドが、長い耳の先をぴくりと跳ね上げてアレンを睨みつけた。
「アレンさん、ひとまず座ってください。何があったんですか」
坂本は温かい漆黒の液体をマグカップに注ぎ、彼の前に置いた。アレンはそれを震える指で掴み、火傷しそうな勢いで喉へ流し込むと、喉の奥から絞り出すような声を上げた。
「例の水道管の大工事です……!JIS規格のおかげで資材は完璧に揃いました。給水馬車の運用も決まりました。……なのに、その資材を運ぶ馬車と水を運ぶ馬車が、王都の主要な街道で大渋滞を巻き起こして、完全に身動きが取れなくなっているんです!」
話を聞けば、原因はあまりにも前時代的だった。これまでの異世界の運送は、建築ギルドも商業ギルドも騎士団も、めいめいが自前の馬車を出して自分の荷物だけを運ぶ「単独の貸切」が当たり前。荷台が半分以上スカスカに空いた馬車が、何百台も同じ街道へと一斉に殺到したのだという。おまけに現場では「俺たちが頼んだ水道管はどの馬車に乗っているんだ!」「石材が届かない!」と、行方不明の資材を探して怒号が飛び交うカオス。
坂本はぬるくなったコーヒーを口に含み告げる。
「原因ははっきりしていますね。インフラの本工事に必要な大量の土木資材の移動と、毎日の給水という、予測を遥かに超えたトラフィックが、これまでの古いやり方のデータ許容量を超えたんです。システムがオーバーフローを起こしています」
「オーバーフロー、か」
特等席のオルドがニヤリと不敵に笑う。
「一つの細い魔力回路に、制御もせんと大量の術式を同時に流し込めば、回路が焼き切れて暴走するのは当然じゃな。アレン、お主たちのやり方は原始的すぎるわい」
「そんな……!では、国中の馬車の運用をすべて変えなければならないのですか!?そんなことをすれば、それこそ何ヶ月もの時間がかかり、インフラが完成する前に王都の経済が死にます!」
アレンが爪が食い込むほど拳を握りしめる。
「いいえ」
坂本は静かに首を振り、夜勤の強い味方であるコンビニのバームクーヘンを彼の前に差し出した。
「一晩で国全体の仕組みを変えようとしては破綻します。大規模システム改修の鉄則は、まずは限定された特定の区画だけで【実証実験】を始めることです」
裏が白いチラシの切れ端に、日本の配送業が何十年もかけて泥をすすりながら洗練させてきたロジスティクスの仕組みを、ボールペンで殴り書きしていく。
「まず、最も渋滞が激しい東区画の工事現場にターゲットを絞ります。ここに、三つの暫定パッチを適用してください」
一つ目、共同配送の試験導入。各ギルドがスカスカの馬車を個別に走らせるのを実験的に禁止する。資材馬車の『相乗り』を義務付け、同じ目的地への荷物を一台の馬車に限界まで詰め込ませる。これで街道を走る馬車の絶対数を半分以下に削減できる。
二つ目、仮設集配拠点の設置。東区画の城門前にある広大な空き地を『仮の荷受所』に指定する。すべての馬車は一度ここに荷物を下ろし、現場ごとに仕分ける。現場の御者が右往左往するのを防ぐためだ。
三つ目、複写式伝票のテスト運用。これが情報のロジスティクスだ。日本から持ってきた普通の宅配便の複写伝票を見せながら、異世界に応用する仕組みを提示した。
「日本の宅配便を模した、三枚複写の『魔導インク伝票』を試験的に数千枚発行してください。一枚目は王宮財務部、二枚目は集配拠点、三枚目は現場の受取人が持つ。これで『今、どの資材が、どの馬車で運ばれているか』の追跡を可能にし、現場での資材行方不明をゼロにします」
「荷物を集めて、仕分けて、追跡する……。国全体ではなく、まずは東区画の一部の現場だけで、この『ロジスティクス』の実験を回すのですね……!」
アレンの瞳に、絶望から一転して、ギラついた理解の光が宿った。一足飛びの理想論ではなく、明日から現場で動かせる泥臭い提案が、財務官としての彼の本能に激しく突き刺さっていた。
「ひっ、ひっひ!物流の最適化か。マスターの手にかかれば、ただの馬車引きの群れすらも、巨大な一つの陣形の一部に変形していくな」
オルドがバームクーヘンをパクリと口に放り込み、そのしっとりとした上品な甘さに長い耳を満足げに揺らしながら、邪悪に笑った。
翌朝、午前六時。深夜業務を終えた坂本は、蔵の窓から、朝の澄んだ空気の中を静かに、そして当たり前のように走っていく運送会社のトラックのエンジン音を聞いていた。
王都の渋滞が、翌朝一瞬で消えることは当然ない。東区画の街道は、相変わらず大混乱の渦中にあった。しかし、王宮の執務室では、一睡もせず坂本のノートを基に「物流改革・実証実験に関する緊急稟議書」を極限の集中力で書き上げたアレンが、鋭い目で国王に書類を提出していた。
国家の大動脈を繋ぎ直すための、泥臭くも壮大な挑戦が、今まさに始まったのだ。坂本は手元の冷え切ったコーヒーを飲み干し、口の中に残る苦味を噛み締めながら、重い瞼を閉じるのだった。




