第37話:深夜二時のリモートワークと、昼下がりの讃岐うどん
チチチ、と安っぽい鳥のさえずりが、遮光カーテンの隙間から差し込む細い光と一緒に漏れ聞こえてくる。枕元のスマホが震えた。正午だ。
「……ん」
重いシーツを蹴り上げ、ベッドの端に腰掛ける。胸の鼓動を確かめるように手のひらを当てた。静かなものだった。あの、心臓が口から飛び出そうになる満員電車の動悸も、胃液が逆流するような月曜朝の悪寒も、もうどこにもない。
異世界の連中が、切羽詰まった顔で蔵のドアを叩くのは決まって丑三つ時だ。だから坂本の生活は、世間とは真逆にへばりついている。夜の十時に動き出し、朝の六時に眠る。近所の老婆たちが不審そうにこちらを見る視線など、どうでもよかった。これが、すり減った心臓を動かし続け、あっちの流通を止めないための、坂本なりの防衛策だった。
薄暗い台所に立ち、錆びの浮いたガスコンロに火を点ける。今日の最初の食事は、大手通販サイトの定期便で届いた少し高めの讃岐うどんの生麺だ。ぶくぶくと泡立つ湯の中に、白く太い麺を容赦なく放り込む。タイマーの電子音が鳴るのと同時にザルへ上げ、井戸水から引いた冷水に両手を突っ込んで、ぬめりを取るように力任せに揉む。指先が痛むほど冷やした麺を器に盛り、庭の隅で自生しているミョウガと大葉を包丁で手荒に刻んで乗せた。おろし生姜のツンとした匂いが鼻腔を突く。冷えためんつゆをドボドボと回しかけ、割り箸を割った。
ズズッ、と音を立ててすする。顎が疲れるほどの強烈なコシが、口の中で暴れる。ミョウガの苦味と生姜の辛みがつゆと一緒に喉を焼きながら落ちていく。世間が汗を流して働いているこの昼下がりこそが、坂本にとっての静寂だった。誰にも邪魔されない、泥のような休息の時間。
食後はシンクの油汚れをクレンザーでガシガシと磨き、庭のドクダミを何本か引き抜く。会社員時代に嫌というほど叩き込まれた整理整頓の癖が、こんなところでささくれた心を滑らかにしていくのが皮肉だった。
夕方四時。外が薄暗くなり始める頃、ようやく「仕事」が始まる。蔵の作業机に向かい、パソコンの電源を入れる。異世界のスラムにある工房から『白金の鍵』を通じて送られてきた、牛革の長財布。その一次加工品を一つずつ手に取り、縫い目のズレや傷がないか凝視する。オイルを含ませたウエスで表面を磨き、プチプチで包んでダンボールへ。
画面の中の売上管理表を確認する。数字は静かに跳ね上がっていた。ブランド『深海』の新作は、日本の物好きたちの間でちょっとした品薄状態が続いている。別の口座を開く。毎月の養育費、それから来年の私立高校の入学金。制服代。大学までの費用。必要な数字は、すでに冷徹なほど綺麗に揃っていた。
「これで……いい」
あの娘のレールだけは、何があっても途切れさせてはならない。
夜の七時。豚の生姜焼きをフライパンで雑に炒め、白飯と一緒に胃袋へ詰め込む。これが坂本の「朝食」だ。八時には再び布団に入り、泥のような二度寝に入る。深夜のワンオペをノーミスで乗り切るための、身体を小刻みに騙すルーティン。
――そして、午前一時半。冷たい井戸水で顔を洗い、皮膚を無理やり引き締めてカウンターに立つ。今夜は、新しく買い替えた銅製ドリップポットをおろした。鈍く光る赤銅のボディ。その細い細い注ぎ口から、お湯を一本の糸のように慎重に落としていく。ト、ト、ト……。乾いた粉が膨らみ、濃厚な漆黒の液体がガラスサーバーの底へ滴っていく。目を覚ますための、そしてこれからやってくるであろう、冷え切った異世界の迷い人たちのための特効薬だ。
午前二時ちょうど。低く重い音が、静寂を破って二回響いた。
「マスター、入るぞ。今夜も外は冷えるな」
長耳を寒そうに震わせながら、大魔導士オルドが這い入ってきた。その手には、坂本が与えた百均グッズの仕組みについて、狂ったように書き殴った羊皮紙の束が握られている。坂本は静かにパイプ椅子を引き寄せた。
「いらっしゃい、オルドさん。ちょうど淹れたてです」
世間が完全に眠りこけた深夜二時。限界集落の古い蔵の中で、坂本たちは今夜も、顔の見えない誰かの運命を動かすための作業を淡々と始める。換気扇の回るブーーンという低い唸りだけが、冷たい空気の中に溶けて消えていった。




