第36話:年単位の工期(リードタイム)と、真夜中の「暫定パッチ」
JIS規格による部品の標準化は、確かにドワーフたちの作業効率を劇的に変えた。狂いもなくピタリと噛み合う水道管が次々と鋳造され、インフラ改革の準備は整ったはずだった。
だが、どれほど優れた部品が揃おうとも、泥を掘り、石を退ける「物理的な時間」という過酷な現実が、再び目の前に立ち塞がる。
午前三時。蔵のドアベルが、耳障りな音を立てて激しく鳴り響いた。
「マスター!大変よ、試作は大成功したのに……完全に手詰まりだわ!」
宮廷建築士のピアが、泥と汗で汚れた王都の地下地図をカウンターに広げ、絶望的な声を上げた。彼女の隣には、甲冑を軋ませながら重々しい足取りで聖騎士団長レオノーラが、そしていつもは冷静なアレンまでもが眉間に深い皺を寄せて座り込んでいる。
「騒々しいのう。せっかくワシが、極上のコーヒーを楽しんでおるというのに」
カウンターの特等席で、銅製ポットで丁寧に淹れられたブラックコーヒーを啜っていた大魔導士オルドが、不機嫌そうに長い耳を揺らした。
「ピアさん、何があったのですか」
いつものように低めのトーンで問いかける。
「規格の統一で、水漏れなしの素晴らしい水道管はできたの!でも……いざ王都全域の地下を掘り返して、この上下水道網を完全に敷設し直す計画を計算したら、工期が……【最短でも五年】かかるのよ!」
「五年……!」
アレンがかすれた声で呟く。
「五年は待てん。あまりにも長すぎる……!」
レオノーラが懐から、血の滲むような記述が並んだ報告書をカウンターに叩きつけた。
「マスター、これを見てくれ。最近、王都の下層区画を中心に、原因不明の激しい発熱と下痢……すなわち『疫病』が爆発的に広がり始めている。被害の拡大ペースから見て、五年も待っていれば、インフラが完成する前にこの国は病で全滅するぞ」
目に見えない菌の拡散スピードに対して、物理的な工事の進捗が圧倒的に遅すぎる。完璧なシステムを構築しようとするがゆえに、完成前に破滅を迎えるという、インフラ構築における最悪のデッドロックだ。
重苦しい沈黙が蔵を支配する中、坂本はアレンたちの前に冷えた緑茶のペットボトルから注いだコップを静かに差し出した。
「皆さん、五年は待たなくて結構です。穴を掘るのは今すぐ後回しにしてください」
「なっ……後回しだと!?では、この疫病をどうやって止めるというのだ!」
レオノーラが身を乗り出す。
坂本はかつてIT企業時代、大規模なシステム障害のデスマーチで嫌というほど叩き込まれたトラブルシューティングを頭に浮かべた。
「システム開発の世界でも、根本的な基盤改修に年単位の時間がかかる場合、完成を黙って待つような愚策は犯しません。今すぐ現場で適用できる【暫定パッチ】を当てるのが鉄則です。インフラがないのなら、人間の運用で今すぐシステムの脆弱性を塞ぎます」
「運用の工夫……暫定パッチ……!?」
ピアが目を丸くする。
坂本はノートを広げ、ボールペンで「今すぐ明日から実行できる三つの暫定運用」を書きなぐった。
「まず一つ目、【汚染源の物理的封鎖】。疫病が出た区画の井戸を即座に使用禁止に指定してください。ガラム親方に爆速量産させた鉄の『蓋』を使い、物理的に鍵をかけてロックするんです。これで汚染水の摂取を強制遮断します」
「なるほど、原因を物理的に塞ぐか!」
アレンの目が光る。
「二つ目、【給水車のピストン輸送】。水が出ない区画には、汚染されていない北の清流水源から、規格統一で作った『水漏れゼロの大樽』を馬車に大量に積み、毎日ピストン輸送してください。物流網を一時的にライフラインへ転用するんです」
「それなら、我が聖騎士団の余剰戦力を今すぐ動員できる!」
レオノーラが拳を握りしめた。
「そして三つ目。これが最も重要です。【『煮沸』の業務命令化】。水をそのまま飲むのを厳禁とし、必ず火にかけて泡が出たら、一呼吸おいてから飲む。このルールを王命として徹底させてください」
「しかしマスター」
ピアが顔を曇らせる。
「スラムや下層の民は文字が読めないわ。『煮沸』なんて難しい命令を出しても、徹底させるのは無理よ」
「文字が読めないなら、音楽を使えばいい」
坂本はカウンターの奥を振り返った。
「ここで、吟遊詩人リュカさんの出番です。彼に『水をそのまま飲むな、火にかけて泡が出たら一呼吸おいてから飲め』という、リズムが良くて一回聴いたら頭から離れない【手洗い・煮沸のCMソング】を作らせるんです。夏フェスを成功させた彼のサビの魔力なら、明日には王都中の子供たちが口ずさみながら、親に水を沸騰させるよう催促し始めますよ」
「ひっ、ひっひ!素晴らしい、実に素晴らしいぞマスター!」
特等席のオルドが、コーヒーを喉に流し込みながら、愉しそうに長い耳を震わせた。
「大地を掘り返す莫大な魔力がなくとも、民の『行動』という術式を書き換えるだけで、疫病の因果をへし折るか!これぞ知恵の極み、最高峰の防衛魔術じゃわい」
「インフラが完成するのをただ待つ必要はなかったんだ……。今あるもので、今すぐ命は救える……!」
翌朝から、王都では驚くべき光景が広がった。
騎士団による厳重な井戸の封鎖と、大樽を積んだ馬車の高速ピストン輸送。そして何より、リュカが作ったポップで覚えやすい「煮沸の歌」が王都中で大流行し、文字の読めない民たちまでもが、楽しそうに歌いながら水を沸騰させてから飲むようになった。
目に見えない菌の拡散スピードを、人間の泥臭い知恵が完全に上回ったのだ。五年かかる本工事を待たずして、疫病の発生グラフは、まるで壁にぶつかったかのようにピタリと垂直に停止した。
深夜三時。激務を終えた常連たちが去り、静まり返った蔵の中で、坂本は一人、実家のデスクの上に置かれた市販のペットボトルを見つめていた。
一個数十円の、完璧に締まったプラスチックのキャップ。遠く離れた工場で同じ規格で作られ、当たり前のように無菌の水が手に入る、現代日本のシステム。
「……完璧なシステムが整うのを待っていたら、現場はとっくに死んでしまう。デスマーチを生き抜くための、基本中の基本ですからね」
坂本は静かにそう呟くと、ノートパソコンの画面をパタンと閉じ、異世界の命を救った深夜のリモートワークに、静かな区切りをつけるのだった。外からは、冷たい夜風が建物の隙間を抜けるヒューヒューという音が、不気味に響いていた。




